HOME > 会社案内 > コラム > 中部経済新聞連載【マイウエイ】
【日置達郎 ひおきたつお】
中学卒業後、製材所勤務を経て、板前の道に。四日市や大阪、東京などで腕を磨き、1971(昭和46)年名古屋かに道楽、1974(昭和49)年札幌かに本家を設立し社長に。
両社の合併により2002(平成14)年から存続会社、札幌かに本家社長。
82歳。三重県津市出身。
筆者近影
はじめに
食で救われ、食のご縁で知名を拝した。
今回、裸一貫から82歳までの人生回顧の機会をいただき心から喜んでいる。
三重県美杉村(現津市美杉町)に生まれ、幼少期から好奇心や探究心が旺盛な上、家事や野良仕事も進んで手伝う、自分で言うのもおかしいが、正義感の強い学級一の腕白少年だった。
小6の夏、家計を助けるためアイスキャンデーを売り歩いていた時に「腹膜炎」にかかったが、12人の大家族では入院はできなかった。
自然から得られる食材での「食餌療法」に望みをつないで闘病し、3カ月程で全快を果たした。
中学時代は牛での農耕、炭焼き、機械式麦こき機での作業などで、学校を休むこともしばしばあった。中学卒業後は近くの製材所に勤め、材木のことを学んだ。リフトもない時代、力仕事で心身を鍛えた。
18歳の春、食で救われた命を食でお返しすべく食の道を志し、「人の寝ている間に学び、遊んでいる間に働く」ことを決意した。家のことばかりさせて背広の一つも買ってやれずに…と泣き崩れる母と、手を離さない妹弟をなだめ、猫ほどの着替えの袋を一つ小脇に抱えての旅立ちだった。
3年間無休で通した四日市の店から始まり、東は東京、西は広島、神戸、松葉かにの本場・山陰の城崎と、商いを学びつつ板前修業を続けた。城崎「金波楼」の大阪支店勤務時代は、本格的なかに料理の創作により、不振だった小料理店の売り上げを、わずか3カ月間で10倍に伸ばしたこともあった。
また、大阪・道頓堀の最高立地を探し当て、今に続く「動くかに看板」も考案した。
修行中も親や実家を忘れず仕送りを続け、無学を補うため夜学で学び、建築設計の知識を得、さらに行商を通じて経営のあり方も体得した。
そして名古屋で独立。71年(昭和46)年に現在の札幌かに本家を設立して今に至っている。札幌かに本家の店舗は、ほとんどが自社物件で、各地のケヤキ、赤松、スギなどを私自身で購入・製材し、飛騨の匠の技で組み上げている。重厚で豪華な店の雰囲気が特徴だ。
現在、全国に14店舗を展開しているが、ここまで拡大できたのも社員と人や土地の縁に恵まれたお陰だと感謝している。
文:社長 日置
2018/01/05
昭和10年、私が生まれた年に開通したJR「名松線」
(写真は現在のワンマンカー)
生い立ち
私が生まれたのは三重県津市美杉町というところである。
かつては一志郡八幡村であったが、その後美杉村になり、2006年1月1日に旧・津市との合併により美杉町となった。
町とはなったものの、今でも見渡せる景色はさほど変わっておらず、杉木立の林立した山に囲まれた静かな山村風景が広がる。
台風や大雨があるといつも最初に止まるのが「JR名松線」であり、よくテレビのテロップで流れる。
名松線の名は「名張」であり松は「松阪」のことだが、戦況の事情もあったのか、私の郷里で終点となり、実際には松阪から「伊勢奥津」という駅を結ぶローカル線となっている。
地域の過疎化もあり維持管理費を賄いきれるほどの収入はなく、赤字路線となっているのは残念だ。
その終点駅である「伊勢奥津」から南西方向に徒歩で15分ほど歩くと、私の実家である「日置製茶」がある。
今は実兄が経営し実弟が手伝いをしているが、製造するお茶は当社のチェーン店の一部にも、お客さまへの提供用として納めてもらっている。
30年ほど前は名古屋から車で4時間以上かかったが、今は高速道路で久居まで行けるため、2時間弱の道のりとなった。
田舎に立派な舗装道路もできたが、政策の事業仕分けに遭遇し、昔の伊勢本街道の再現が断たれている。
また最近地元の古文書から、私の祖先は伊勢を地盤とした国司・北畠家の侍大将「日置大膳亮」であることがわかった。
幼少の頃より、祖父からはそれらしい話を聞いた覚えがあり、実家の裏にはかつて大膳が住んでいたと言われている屋敷跡も残っていた。
今はその面影もなく、わずかに名残を残す高石垣があるだけだ。その場所は区画整理でほとんどつぶされているが、見晴しのよい砦の形をしていたという記憶がある。
後に家康の家臣となった日置大膳との関わりや不思議な縁については後述させてもらうが、私を今日の成功へと導いてくれた大切なご先祖様の一人に違いなく、この跡地に記念碑的な何かを残せたら…と思っている。
文:社長 日置
2018/01/06
実兄が経営する美杉の「日置製茶」
母親っ子
村の中でもかなり奥にあった日置家は、わずかに田が4反、畑が2反ほどしかなく、田も半分ほどは、農地を借りての小作農という状況であった。
田1反から穫れる米は2石半ほど。
昔は1石が大人1人の1年間の消費量と言われており、当時の日置家の家族の多さを考えれば、この程度の土地ではとても賄いきれるものではなかった。
そんな貧農の次男坊として生まれた私は、この苦しい状況を知ってか知らずか、親にほとんど迷惑をかけることなくすくすくと育ったようだ。
祖父はニコチン、アルコール中毒のためにろくに働けず、父親も山仕事の事故で片目を失明し、その後遺症で重労働はできない状態が続いた。
そのため家計は母親に頼るところが大きく、母親が製材所の雑役婦として外に仕事に出かける間、私は寝かされっぱなしの状態が続いた。
昼に母親が戻ってきた時には、おむつはぐしょぐしょの状態である。
ところが私は全くぐずることなく、寝返りも打たず、這い出すまでは動き回ることもなく、ただひたすらじっと待っていたという。
授乳のために戻ってきた母親の顔を見ると満面の笑みを浮かべるという、我慢強さとやさしさを兼ね備えた赤ん坊でもあった
そのためか、おねしょ癖はそのまま直らず小学3年4年まで続いたが、母親は決して叱ることなく逆に「この子は将来必ず成功者になる!」と温かく見守ってくれた。
そんな愛情に応えるように、母親に口ごたえ一つすることもなく、やがて懸命に母親の手助けをするようになっていく。
さらにもう一つ、赤ん坊の頃からの癖だと思うが、今でもいったん寝入ると身じろぐことなく、ずっと上を向いたまま朝まで寝ていられる。
額にタオルを置いて試したことがあったが、目覚めた時にはタオルはそのまま残っており微動だにしていなかった。
寝返りを打つこともなく、いつの間にか布団がはがれるということもないので、風邪をひくことも滅多にない。
育った環境のお陰なのか、自然と身についた私の特技とも言える
文:社長 日置
2018/01/08
私が少年期を過ごした美杉の実家
心優しい正義感
背は小さいほうだったが足腰の力は強かった
幼少から両親の手伝いに奔走し、それが自分の体を鍛えることにつながったからだ。
農作業の手伝いも、重要な一働き手となり率先して行った。
学校から家に戻ると牛に唐すきを付けて田を耕した。
米や麦搗(つ)きのため何時間も杵(きね)を足で踏み続けることもあった。
わらたたきやまき割りにも精を出した。山を駆け巡って山菜取りもした。
辛い、苦しい、嫌だ…そんな気持ちは微塵も起きなかった。とにかく自分の働きで周りの人が喜んでくれるのを見るのがうれしかった。
腕も足も自然と強くなり、小学3年生の頃にはけんか一番、相撲一番のガキ大将になっていた。それでいて心根は優しく、「悪しきを挫(くじ)き、弱きを助ける」正義漢でもあった。
無用なけんかはしなかったが、1級、2級上の子とけんかしても負けたことは一度もなく、相手の顔を叩くとか道具を使うという卑怯な手も一切使わなかった。
ところが、家ではおとなしく手伝いに精を出し兄弟けんかもしないので、母親からは「外弁慶」と呼ばれたりもした。
ただし、生粋の模範少年ではなく、年相応にいたずらもしたし、名うての「荒漢(あらかん)坊主」で聞こえた時もあった。
精がつくからとマムシを捕まえては皮をはいで、生で食べるという荒業もした。
友人にも食べさせたところ、その友人が熱を出して学校を休んだ時には、さすがに先生から大目玉を食らったこともあった。
また、手伝いをしている時の母親と過ごす時間は、私にとって貴重な体験と人生勉強の時間となった。
よくこんなことを言われた。
「人間はなあ、人に言われてやるより自分から感じ、考えて動く人間にならなくてはダメだよ。それを、打てば響く人間というんや」また、「一を聞いて万を知れ」の言葉も記憶に刻まれている。
気の回る人間になれとの示唆だ。
それは、後にサービス業に身を置く私への強く大きなメッセージとなった。
文:社長 日置
2018/01/09
空の要塞とも言われていたB29
(イラスト・筆者)
太平洋戦争
多感な小学生の頃に太平洋戦争を経験している。
1944(昭和19)年になった頃から、静かな美杉村の空にも戦雲が立ち込めるようになった。
本土爆撃が日増しに激化する中で、戦火を逃れてかなりの人たちが疎開して来て、村の人口は一気に増えていった。
小学3年生の私にとっては、村がにぎやかになってきたという感じはあったが、正直戦争は怖いという実感はまだ持てなかった。
それまでは、アメリカ軍のB29がかなりの上空を週に1、2度飛来する程度だったが、夏を過ぎると制空権も弱まり、かなり低い高度で爆音をとどろかせて通過していくようになった。
時にはP51やグラマン戦闘機も飛来し、空中戦を演じることもあった。
そのうち、近くの山に焼夷弾や爆弾が落ちたこともあり、危機感が高まった。
各農家で防空壕を掘るよう命じられたが、しばらくは子どもの遊び場として使われることが多かった。
晩秋になるといよいよB29の飛来は激しさを増していった。上空を通過するたびに「警戒警報」「空襲警報」の半鐘が静かな山間に鳴り響くのだが、身軽さを買われた私は、その半鐘を叩く役割を任されていた。
半鐘が吊り下げられている櫓(やぐら)は崖のふちに立っており、足を踏み外せば谷底へ一直線に落ちてしまう危険な場所だったが、不思議と怖さはなく、むしろ与えられた役割をしっかり果たし村の人たちを守ろうという気持ちが強かった。
ある日、日本機と思われる大型機が1機、火を噴きながら落ちていくのを目撃した。なんだか悔しい気持ちになったことを覚えている。
後年、山で発見されてわかったことだが、その大型機は元総理大臣、中曽根康弘氏の実弟が乗った軍用機だった。
実弟を含む12名の尊い魂は、美杉町からほど近い、母の古里の松坂市飯南町上仁柿の「高福寺」に眠っているという。
戦争は全てを奪い去る凶器である。
世界のどこかで未だ戦火が絶えない現実を憂いつつ、平和な日本、平和な世界の実現を強く望みたいものだ。
文:社長 日置
2018/01/10
田畑を耕しながら牛を観察した
(イラスト・筆者)
好奇心と探究心(1)
子どもの頃から、好奇心や探究心などが旺盛だった。
何気なく目に入るものでも「なぜだろう、どうしてだろう」という気持ちがふつふつとあふれてきた。
中学卒と言う肩書きではあるが、人並み以上の知恵を授かった(と思っている)のは、そのお陰だと確信している。
例えば「鳥や虫はどうして空を飛べるのか?」。
もちろん羽があるからそうなのだろうが、自分の体を浮かせるあのパワーの源は何だろうか? という具合だ。
また、小学3年生の頃から野良仕事を手伝うのが日課だった。よく牛と唐すきを使って田畑を耕していたが、その時の牛の様子を見て、「なぜ牛はこんなにおとなしく、しかも黙々と働き続けられるのだろうか?」。
そんな思いに駆られることもあった。
その原因を探るために徹底的に観察を続けた結果、たどり着いたのは「食べ物」であった。
鳥は木の実や穀物を食べ、虫は草花の蜜を吸いあれだけのエネルギーを生み出す。
そして、牛は草を食むことで驚くような体力、持久力と温厚な性格を有する。
よく考えれば、草を食む動物たちはほとんどが温厚でありおとなしい。
羊や山羊、うさぎなどにしても人に嚙み付くとか攻撃した、という話はまず聞かない。
さらに「麦をまく時期はなぜ秋なのか?」。
普通は植物が育ちやすい春先にまけばいいはずなのに、わざわざ寒い時期にする理由がわからない。
自分で確かめないと納得しないところもあったのだろう、それならばと実際に春に種を蒔いて様子を観察した。
すると芽が出て途端、すぐに鳥や虫たちによって食べ尽されてしまった。そこから、麦の滋養を知っている鳥や虫に食べられないように、との経験値からなされていたのだと合点した。
頭であれこれ考えてもらちが明かない時は、実際に行動して確かめればよい。その経験則は今でも私の信条である。
また、体と心は食べ物、特に植物によって作られるということを自然の事象から学ぶことで、食べ物への感謝の念とともに、体に良い食べ物を選択する意識が強く根付いていったと思う。
文:社長 日置
2018/01/11
「緊急オペ」を行う
(イラスト・筆者)
好奇心と探究心(2)
幼少時代の好奇心、追求心、探究心の強さを物語るエピソードには、こんなものもある。
「なぜヘビはスズメの卵を食べないのか?」。
そう気づいた私は、早速自宅の瓦屋根にはしごをかけて登り、スズメの巣を探し出して卵を2個取ってきた。
火を起こし、十能(じゅうのう)と呼ばれる小型のスコップ状の火鉢などで使う道具に、卵を割って焼いてみたところ、見た目はウズラの玉子焼きと遜色なく匂いもすこぶる良い。
期待して口にした。ところが…一口食べたところ舌の上をしびれるような「エグさ」が走り思わず吐き出してしまった。
とても食べられる代物ではないことがわかったが、同時に、蛇などの外敵に卵が食べられないよう与えられた自然の力であることも実感した。
よほど珍しいことなのだろう、82歳のこの年になるまで、スズメの卵を食べたことがあるという人の話をいまだ聞いたことはない。
また、家で飼っていた鶏の外科手術を行ったこともあった。非常に塩辛い干した小イワシの頭に糠(ぬか)をまぶしたものを、たまたま祖母が餌として、鳩ほどの大きさの5羽の鶏に与えた。育ち盛りで食欲も旺盛。
見る見る平らげていく様子を傍目に少しその場を離れて戻ったところ、何と5羽とも倒れ4羽は既に絶命していた。強烈な塩分のせいだった。
「切開手術で小イワシの頭を取り出せば生き返るのでは…」そう考えた私は、すぐさま小刀を手に取り、虫の息の一羽の鶏の切開手術を施した。
水で胃の中を洗浄した後、針と絹糸で胃袋と皮の切り口を分けて縫い合わせ、赤チンで消毒し様子を見守っていたところ、なんとしばらくして息を吹き返したのだ。
十分もすると元気に歩き出したが、水を与えると切り口からボタボタと漏れ出すため、思案の末米の粉と糠を混ぜ合わせたものを食べさせてみた。
すると、やがて胃の内側から隙間が埋められたのか水漏れはなくなり、数日で完治してしまった。
ヒヨコの生命力もすごいが、突拍子もない自身のチャレンジ精神には我ながら驚いてしまう。
文:社長 日置
2018/01/12
不健康と不幸せの絶対方程式
(イラスト・筆者)
好奇心と探究心(3)
健康には人一倍、いや二倍、三倍の気を遣っている。
食の大切さもさることながら、体に悪いとわかっているものを、あえて手を出してしまう愚の行為は戒めなければならない。
この信念もやはり幼少時代に培われたものだ。
私が小学1年生のころのこと。
村の中に、はたから見て元気のある家とそうでない家があるのだが、その違いはどこから生まれるのか、ということに興味を持ち調査したことがあった。
目をつけたのはタバコである。
タバコを吸う家と吸わない家をグラフに表してみたところ、いずれもその父親がタバコを吸っている家庭は生活力が弱く、吸っていないところは生活力が上がっていたのだ。
まだタバコの健康被害など世間の誰も口にしていなかった時代であり、今考えれば先進的な知見だったと思う。
ちなみに1943(昭和18)年には戦争の影響でタバコの販売は中止された。
また、かつてバリバリと働いていた祖父が、あるころから坂を下るように元気を失い、さえない一老人になってしまった。
農作業をしていても、少し働いてはすぐに休み座り込んでキセルをくゆらしてばかりいた。
体も次第に弱くなり病気がちになっていった。
加齢と言う理由だけではないように感じた私は、祖父の知り合いから若かりしころの様子を色々と尋ねてみた。
一様に返ってきた答えは「おじいさんは若い頃は本当に働き者だった。
ただお酒やタバコをずいぶん嗜(たしな)んでいたな…」というもの。
お酒とタバコに原因があるのでは、そんな予感がした。
この経験値から私にとってタバコと深酒は、人生と家族を台無しにする忌むべきものとの思いが刷り込まれた。
タバコは元々南米在住のネイティブアメリカンが吸っていたものを、コロンブスが発見してヨーロッパに伝えたものである。
日本には信長の時代(1575年ころ)にフロイスが持ち込んだと言われているが、私から言わせれば悪しき慣習の始まりだ。
いつまでも健康で元気に活躍したいならば、悪いとわかっていることをしない勇気と強い意志を持たなければならないと強く思う。
文:社長 日置
2018/01/13
集落のウサギを鑑別
(イラスト・筆者)
好奇心と探究心(4)
追求心・探究心が高じて、子どもにしてはずいぶんとませたこともした。
戦時中あるいは戦後、ほとんどの家では食用として10匹程度のウサギを飼っていたが、よく子を産まないと漏らしている声を聞いていた私は、もっとたくさん子どもを産ませるための方法を研究してみようと思った。
まずはウサギの観察に着手した。
学校から帰宅すると、早速自宅で飼っているうさぎを1匹ずつつかみ出しては、その見分け方の特徴を丹念に探したところ、下腹部の違いによりオスとメスの判別がわかるようになった。
他の動物のように外見上での判断は難しく、小ウサギならなおさらのこと。
素人目には難しい診断も、実際に観察し確認することでそのわずかな違いを会得したのだ。
子どもが増えないというのは、そのグループがオスばかりやメスばかりの可能性がある…。
そう考えた私は、翌日から会得した特技を生かすため近隣の家々を鑑別に見て廻った。
案の定どの家でも性別の違いはわからないままに飼育しており、自分の判断が正しいことを確信した。
1匹ずつ取り出して下腹部を丹念に調べオスとメスを見分けては、「もっとオスの割合を増やさないとダメだよ」といった適切なアドバイスをする私を見て、大人たちはただただ感心するやら目を丸くするやら…。
みんなの役に立って喜ばれるのがうれしかった。
この評判は集落中に広まり、私の家にウサギを携えてわざわざ鑑定依頼に来るほどになった。
オスとメスのトレードや、婿取りの世話、種付け出張の橋渡しに始まり、理想的な繁殖のタイミングなども自らの観察から得た知識としてアドバイスすることができ、子ウサギの大量生産に大きな役割を担うことができた。
見てみよう、やってみよう、というという姿勢は自分も周りも豊かに、幸せにしてくれると子ども心に感じたものだ。
そして、やがてこの特技のおかけでもらったうさぎたちが、私の命を救う大きな一助になるとは…。
まさに「芸は身を助ける」である。
文:社長 日置
2018/01/15
商売の面白さを実感したアイスキャンデー売り
(イラスト・筆者)
親孝行
終戦翌年の1946(昭和21)年、大黒柱である病気がちの父親に代わり、実兄と2人で農作業に明け暮れた。
牛と唐すきを使って田を耕すのは2人の大切な仕事で、時には学校を休んで野良仕事をすることもあった。
12人という当時村一番の大家族が食べていくためには、大人子ども関係なく動けるものは皆働かなくてはならなかった。
7月になると伊勢奥津の駅前にアイスキャンデー屋が開業した。店頭に張られた「売り子募集」の張り紙を見て私は早速申し込んだ。
面白そうだし、夏は良く売れてもうかるはずだと踏んだからだ。
もちろん自分の小遣い稼ぎではなく、もうけは全て家に入れるつもりだった。少しでも役に立ちたいと思ったからだ。
保冷箱と旗と鈴は貸してくれるが、自転車は自前で用意しなければならなかったので、使い走りでためていたお小遣い50円をはたいて古自転車を購入した。
かなり手入れが必要だったが、しっかり磨きあげ油をさして、何とか夏の酷使に耐えられるよう整備し、夏休みになるのを待った。
アイスキャンデーは1本2円で仕入れて3円で売る。差額の1円が自分の儲けとなる仕組みだ。
初日は100本仕入れてスタートした。
他の人と同じように売っていては、売り上げは伸びないだろうと思い、先ずはどの地域が良く売れるのか一通り走ってみて確認することから始めた。
途中、呼び止められて初めて売れ、お金を手にした時はさすがにうれしさで小震いした。
残念ながら初日は60本程度しか売れなかったが、それでも差額の儲けである60円を母親に全て渡した。
その時の母親の喜んだ顔は今でも忘れられない。
その後も夏休み中は毎日キャンデーを売り続け、売り上げを全て渡した。働くとは「傍(はた)を楽にする」とも言われる。
周りを楽にすることが、働くことの喜びであり楽しさだと当たり前に考えていた私は、それだけで満足だったのだ。
商売のコツ、商いの基本が身についたのは言うまでもない。
文:社長 日置
2018/01/16
悪夢に悩まされ続ける日々…
(イラスト・筆者)
重い腹膜炎 ケガはよくしたが体はとにかく丈夫で、病気とは縁遠いと思われた私だが、小学6年生になると体調の優れない日が続くようになった。 体の重さ、腹の痛み、微熱…が治まらないのだ。お粥(かゆ)をすすりながら相変わらず山菜取りに農作業、米搗(つ)き、麦搗き、藁(わら)たたき、牛やうさぎの餌の草刈り、妹や弟の子守り…と忙しい毎日が過ぎ、田植えのころになると腹が少し張り出してきた。 こんな経験は今まで一度もなかったが、それでも夏休みには川遊びに行く友達を横目に、炎天下のアイスキャンデー売りを続けた。 そのうち自分が呪われているような恐ろしい夢を見るようになった。 自分が今まで殺生した生き物たちが私に迫ってくるのだ。 その時は面白半分にやっていたが、なぶり殺しにしたカエルやヘビにも命はある。 それを踏みにじってきた行為を彼らは責めているようだった。 体の容態は次第に悪化し、お腹の中に水がたまっているのか歩くとジャブジャブと音がするようになった。 寝ていても痛みに襲われ、加えて悪夢の耐えがたい苦悶の日が続き、さすがの私も大いに反省した。 神様に金輪際無益な殺生はしないと心に誓い、心から許しを請うた。 数日後、母に連れられ近くの病院を訪れたところ、医師からは重い腹膜炎であるとの診察を受けた。 村の医者ではとても治療はできないので、とにかく大きな病院へいってくれとのことだった。 症状がはかなり深刻だったのが私にもわかった。 さらにもう一つの心配は、入院費用のことだった。家の蓄えや当時は保険など全くなかったからだ。 それでも父親は、費用を捻出するため自家製の手あぶりの緑茶を一斗缶に五つほど用意し、私を連れ松阪にある親戚の茶問屋へ売りに出かけてくれた。 ところが、巷(ちまた)では製茶機による安価なお茶が出回り始め、手あぶりの高級茶はむしろ不人気を呈していた。 丹精を込めて作った緑茶を二束三文の値段で売るわけにもいかず落胆する父親…それでも、とにかく病院へ行こうということになった。 費用に不安を抱えたままの2人の足取りは重かった。
文:社長 日置
2018/01/17
奇跡をもたらした食のパワーに感謝
(イラスト・筆者)
奇跡の回復
「重い腹膜炎なのですぐに入院する必要がある」―。松阪の病院での診察結果だった。
しかし、入院費用を捻出できない父親は「家の都合もあり、薬だけもらって家で養生させたい」と答えるしかできなかった。
家庭での療養では全治する可能性はほとんどないとの医師の言葉に逡巡(しゅんじゅん)した父親は、私に「どうする?」と尋ねてきた。
私は、「大丈夫だよ。家で安静にして体に良いと言われているものを食べれば治るよ」と精一杯の返事をした。
自分のことで両親や周りに迷惑を掛けたくないという気持ちもあったが、それ以上に自然の産物の力で必ず治せるという確信があった。
それは、基礎体力に自信があることと、無益な殺生を反省し心を入れ替えれば、神様は必ず自分を助けて下さるのでは…、という思いがあったからだ。
私の言葉に父親も吹っ切れたのか、心配する医師に一礼し自宅に戻ることとなった。
家では徹底した「食餌療法」で療養した。
これだけは、と仏様にわび、かつて鑑別のお礼にもらったウサギや、開腹して命を助けた鶏がメスに産ませた有精卵、マムシやニンニク、うなぎや薬草など、母の心尽しの料理を感謝しつつ食べた。
また、体に良いと勧められるものは何でも口にし、できる限りを日光に体を浴して静養に努めた。
しばらくは腹痛や苦しさが続いたが、それでも我慢強く食餌療法と休養に徹しているうち、次第にお腹の張りが小さくなり、快方に向かっていった。
あれだけ苦しめられた悪夢からも開放され、元の元気な体と心を取り戻すことができたのだ。
今から考えれば奇跡的な回復といえる。
後日談だが、当時の日本ではペニシリンなどの抗生物質がまだ普及しておらず、入院をしても十分な治療が施せず、ほとんどの子どもや患者が命を落としたと言われている。
入院できなかったこと、食餌療法にかけるしかなかったことは、全ての命を助け人生を見つめなおすために神様が与えて下さった試練だと感謝し、この命を無駄にはできない、との想いが強まった。
文:社長 日置
2018/01/18
食材への感謝を込め毎年行われる「かに供養」
ごちそうさま
2カ月半にもわたる病気との闘いと静養の毎日は、それまでの自分とこれからの生き方を深く考える時間を私に与えてくれた。
「栄養状態を考えずに体を酷使しすぎたことや、小動物の命を顧みない無益な殺生を繰り返したことが今回の大病の原因となったに違いない」。
そう反省をし、これからは、健康や栄養をよく考えながら自分に厳しく他人には誠意を尽すこと、物事や仕事に対して真心を持って喜んで進んで取り組むことを心に誓った。
また無益な殺生は今後一切せず、命あるもの全てに対して、無駄にすることなく最大限に生かすことが、人間としての努めであり使命だとの思いも強くした。
小学6年生ながら、今回のことは「自分を強く大きくしてくれる試練」と捉えることができた。
「失敗も勉強」とただでは起きないタフな精神力が、既にこの頃から身についていたと思う。
やがて私が飲食の道に入る大きなきっかけになったのも、この時の体験によるところが大きい。
「食によってかけがえのない命を救われた。
それならば、その食を通して周りや社会に恩返しをしていきたい…」この思いは、今日まで常に私の原点となっている。
蛇足だか、社内では食事の時はきちんと手を合わせて「いただきます」や「ごちそうさま」を言うように指導している。
「いただきます」は私たちの生命をつないでくれる米や野菜、肉や魚に対してその命をいただきます、と言う意味であり、「ごちそうさま」はお客さまをもてなすために食材を求めて馬を走らせたという主の行為(馳走)への感謝、という意味であることを伝えるが、最近は知らない社員も多い。
特に食に携わる私たちにとっては、忘れてならない大切な言葉である。
ちなみに、毎年12月の繁忙期を前に、日頃、食材として使用しているかにを始め、魚介類への一年の感謝を込め「かに供養」というものを行っている。
社員が生かされている(生活できている)さまざまな命を意識し、それらをより生かして使わせてもらうという誓いの場ともなっている。
文:社長 日置
2018/01/19
製材所での経験を生かし、材木を競り落とす
地元の製材会社に就職
1951(昭和26)年3月、中学校を卒業した私は家庭の事情もあり地元の製材工場へ就職した。
当時はリフトやクレーンなどまだない時代で、材木はトビで引っ張り肩で担いで移動させる方式である。
体力には自信があったものの、さすがに肉体的な負担は大きく、家に帰ると何も手につかないということがしばしばあったのを覚えている。
ほどなくすると、「等級付け」の仕事も任されるようになった。本来なら、これは熟練工や番頭がするような仕事である。
製品にされた柱を品質に応じて幾つかのランクに分け、マークを押していくものだ。
正確な選別力が必要であり、その良し悪しが経営を決めるほど大事な作業でもある。
社長から直々に言われて引き受けたが、真面目さと直感力を買われたのだろう。
社長の期待に応えようと努力し、数日で選別の概要を会得した。
この製材所勤務の経験が、後の店造りの材木の目利きへとつながり、今ある店舗造作の下支えとして生きることになる。
この当時には本当に悲しい思い出もある。
私には「さかえ」という1歳年下の妹がいた。実に良く間に合う気立ての良い子だった。
大阪の叔母の家で洋服の仕立ての勉強をしていたのだが、お盆の帰郷で久しぶりに顔を合わせた。
その日も、一帳羅(いっちょうら)のまま、母親の草むしりの手伝いに精を出す姿が見られた。
ところが、16日に送り出してからわずか5日後に、重い病気にかかり入院したとの知らせが届いた。
治すには新しい注射、今で言う抗生物質が必要だったが、まだ開発されたばかりで値段は高く保険医療制度もない時代、家の蓄えなど期待できなかった。
とにかく治療費を工面するため、製材会社の社長さんのところに向かい給料の前借りを願い出た。
10カ月分の給料6万円を借りることができ、快方への期待が膨らんだが、その祈りもむなしく帰らぬ人となってしまった。
悲しい別れであった。
ただ、製材会社の社長さんには、本当によくしてもらったと感謝している。
文:社長 日置
2018/01/20
現在の津市・立町商店街。かつての賑わいは、今は見られない
(イラスト・筆者)
外食との出会い
私は、妹「さかえ」の治療費として前借りした給料を1日も早く返すため、お盆過ぎの炎天下を、汗と涙にまみれながら無休で働き続けた。
ちなみに、私の父親は名を「栄三」(えいぞう)と言う。亡くなった妹の名は「さかえ」(栄)。
そして、後に縁あって、私が名古屋で独立し発展の基盤を作らせてもらった場所は栄(正しくは栄3丁目)である。因縁めいたつながりがあるように思えてならない。
1954(昭和29)年になると、戦後復興のための材木需要も勢いを失い、勤めていた会社も廃業し食堂に転業することになった。
大半はやめて転職せざるを得なかったが、私ともう1人だけ津の食堂で引き続き働いてほしい、との要請を受けた。私にとってはまさに「渡りに船」であった。
54年3月、津市・立町通りに開店した食堂の1階入り口で、私はドーナッツを揚げて販売する仕事を任された。
私にとって外食産業との最初の接点でもあった。
社交性や人当たりの柔らかさなどは、幼少のころからの家の手伝いやバイトを通し身についたものだが、それがこの仕事でも大いに発揮された。
物怖じせず、道行く人に声をかけてはチラシを配るなど、積極的にPRに努め、お客さまとの会話を楽しんだ。
やがて、そこで働く板前の仕事に興味・関心を持った。料理を作り出す喜び、給料の高さ、寝食付きなど生活に不自由しないし、しっかり蓄えれば独立するのも可能である。
当時の外食産業は水商売と言われ、世間ではまだまだ低く見られていた。
それに、板前も「飲む・打つ・買う」という三悪に染まってしまい、身を持ち崩す人が多いと言うイメージが強かった。
だからこそ、真面目に努力さえすれば、無学でコネを持たない自分のような一介の青年でも、頭角を現せるはずだと感じた。
「人の行く裏に道あり 花の山」ということわざがある。
自らの努力で切り開く勇気と実行力を持たなければ、後の成功をつかむことはできない。
そんな私自身の外食産業にかける基本的な想いが、この時を境に大きく膨らんでいくのである。
文:社長 日置
2018/01/22
四日市での修業時代
(右から2人目が私)
背水の陣
外食産業を自分の進む道と決め、「無」から「有」を生むための試練としていかなる苦労もいとわないとの決意を固めた。
まずは、商魂を学ぶために「食い道楽の本場」大阪での修業が必要と考え、製材会社の経営する食堂を退社することにした。
いったん郷里に戻って両親に話しをしたところ、やはり、道楽者になってしまわないかという心配が強かったようだ。
しかしながら、「徹頭徹尾頑張れば、必ず独立でき、一人前の経営者になることができるはず。
人の嫌うことを進んで真っ直ぐにやれば、道は自ずと開けてくると思う」と、真剣に意欲的に理解を求める私の言葉に、ついに父も首を縦に振ってくれた。
本格的な板前修業に出発したのは6月の末ごろ。家での製茶や田植えなどの農作業の手伝いが一段落した後のことである。
製材会社での給料のほとんどを家計のために入れていた私には、背広すら買う余裕はなかった。
スフ(人絹)のズボンにカッターシャツといういで立ちに、浴衣の寝巻きと下着類が入った一抱えの風呂敷包みが荷物の全てだった。
小遣いはわずかに1700円。大阪までなら行きの電車賃程度であった。
まさに背水の陣の覚悟だったが、不思議と希望に胸は膨らんでいた。
「必ず立派になってみんなを安心させるぞ」との思いを強くした。
以前から、食堂の板長に大阪の勤め先を頼んであったのだが、津駅で落ちあった私が聞いたのは、意外にも四日市での勤務の話だった。
一足違いで、大阪の店には別の人が行ってしまったとのこと。
急きょの予定変更だが、そこは調理師組合の支部長さんがやっている割烹と寿司のお店と聞き、安心してお世話になることを決めた。
いよいよ料理見習いとしての修行が始まった。店の名は「古登代」と言った。
四日市に今のようなコンビナート群が出来る以前の話である。
文:社長 日置
2018/01/23
修業を共にした樋口武市君と2人で
(右が私)
無休の生活
四日市で板前見習いを始めて5日目には、思い切って丸坊主にして自分を奮い立たせた。
出前、舎利(しゃり)炊き、仕込みなど、朝10時から深夜1時ごろまで休憩も皆無だったが、製材会社での材木担ぎで鍛え上げた体力を頼りに、とにかく一心不乱に働いた。
休みは、毎年5月には家業の製茶の手伝いに帰郷するため、まとめて2週間もらうのと、元日の半日以外は翌年の5月まで1日も取らずに働いた。
元日の半日休みも、大晦日の夜中に、弟や妹に手土産を携えて帰郷し、とんぼ返りで昼に戻るという強行軍であった。
そんな働きぶりと、「飲む・打つ・買う」という遊びをせず、品行方正だったため、四日市調理師組合の第1回の表彰式には、先輩格会員とともに優秀調理師として表彰されたりもした。
しかも、給与のほとんどは仕送りや実家で購入した製茶機械の代金に充てていた。
3年間ほぼ無休でがんばったが、次なる高みを目指し四日市を後にした。1957(昭和32)年のことである。
当時四日市は、ようやく今の石油化学コンビナートの造成計画が持ち上がったころである。
しばらく津の料理店に勤めたが、いよいよ当初の希望をかなえるべく「食の本場」大阪に赴くことにした。
四日市での板前見習いは、津市の二鶴寿司の主人の紹介によるものだったが、今回は誰の紹介も頼らず単身乗り込む決意を固めた。
「入方(いれかた)」と呼ばれる調理師斡旋所に登録し、仕事が紹介されるまでそこで待つ、というシステムであった。
大阪ではまだ食堂やすし屋はそれほど多くなく、戦争から復員してきた経験者たちも集まり職人が過剰状態だった。
仕事が見つかるまで通天閣の近くの安宿に泊まり、50円のカレーやうどんでしのぎながら、街の飲食店のウインドー見学というお金を使わずできる独自の勉強を進めた。
周りを見れば、学ぶべきことはいくらでもある。
一時も無駄な時間は過ごしたくないという気持ちが強かった。
文:社長 日置
2018/01/24
大阪の繁華街、宗右衛門町
自分磨き
5日目にやっとお呼びがかかった。
最初のすし屋は大阪一の繁華街に位置する新装オープンの店だったが、知名度や信用がない上に、店主が客席で好きなように振舞い、お客さまに不快な印象を与えていたため、ついには倒産の憂き目に会ってしまった。
調理場の力の及ばない部分とはいえ、店がつぶれるのを目の当たりにしたことは貴重な体験となった。
次のすし屋では、板長が店の主人から苦言を言われ腹を立ててしまい、調理人全員を引き連れて辞めてしまう「総上がり」を経験した。
当時の業界ではよく行われていたもので、板長の命令は絶対であり従わないわけにはいかなかった。
する側よりも、された側のダメージは相当大きくなる。
営業が立ち行かなくなるのだから、こういう事態を極力避けるよう、お互いの信頼、信用関係の構築が必要だと感じたものだ。
その後も「庖丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修業…」という藤島恒夫の歌を地で行くように、東京、神戸、広島…と、全国各地を回り修行を続けた。
とにかく、タバコを吸わずお酒も飲まず、健康には人一倍気をつけ、実家への仕送りを欠かさなかった。
また、その間は、常に食材を生かす努力と研究を重ねて美味しい料理を作り、お客さまに喜ばれながら、縁のあったお店の繁栄のために全身全霊で尽したのだった。
また、料理の技術取得と同時に自分磨きにも余念がなかった。
一つには、時間があればその土地の代表的な施設や美術館、博物館、展示場、あるいは古い有名な社寺や建造物などを片端から見て回った。
自身の視野と感性を高め、新しい知識を得るためであった。また、経済新聞を読むことにした。
これから到来する新しい時代への準備も必要だと感じたからだ。最新の知識と情報、考え方や方向性を知るうえで、私にとってはまたとない教科書だった。
ここから得た知識はお客さまとの会話でも大いに活かされ、そして驚かれた。
異色の調理人に見られていたと思う。
文:社長 日置
2018/01/25
上寿司の握り手に抜擢
(イラスト・筆者)
神戸・三宮
郷里の両親にも多少の余裕ができてきたのか、豆腐屋を始める、との知らせが届いた。
よく聞いてみると、水に漬けた豆を石臼で挽(ひ)く昔ながらのやり方で、深夜の2時ごろには起きなければならないとのことだった。
それは大変だろうと考え、仕送りの残りの小遣いをかき集め中古ではあったが電動の豆挽機を買って送った。
それ以前にも、出回り始めた電気炊飯器やタイマー、健康器具などを送って親を助けたが、子どものころ、いつもお粥(かゆ)やぞうすいで育ててもらった私は、一銭の無駄金も使う気になれず、とにかく両親にお返しすることしか頭になかった。
休日も無駄にすることなく、自分でとっていた経済新聞をよく読み、時流の把握にも努めた。
勤めていた店は大きくて立地もよく、昔はよく繁盛していたらしいが、私がいたころはかなり静かで、長期の勤務者もおらず不安が先だった。
店主が食材を仕入れ主な仕込みも行うが、食材を際限なく安価なものに変え、調味料も質を落としたため、味は落ちお客様が逃げていく…。
危機に気づかずやがては死んでいくという「茹でガエル」のたとえを見る思いだった。
次は神戸の三宮の「二鶴寿司」に勤めた。そのお店には古参の番頭がいて、毎朝大阪魚市場まで仕入れに出かけ、瀬戸内海のいきの良い旨い魚を届けてくれた。
その魚の良さを引き出し生かすのは、板前の腕の見せ所でもある。それを心掛けている私の仕事を女将(おかみ)が早速見抜き、「板長、上寿司が通ったら日置さんに握らせて…」と指示を出してくれたのだ。
そこでの私は7人体制の下から4、5番目だったが、上寿司は私、並寿司は板長、という役割分担が取られた。
楽しくやりがいが感じられる店だった。
阪急三宮駅前という好立地も手伝い、店も繁盛していった。
当時は、姫路市の西南の網干(あぼし)方面から、生きた車海老や子持ちのシャコなども入る良い時代で、神戸港もまるで一幅の絵画のようだった。
中突堤(なかとってい)、メリケン波止場、白い船など、美しかった60年前の景色が懐かしく思い出されてならない。
文:社長 日置
2018/01/26
亀の腹に成功祈願を刻む
(イラスト・筆者)
一匹の亀
話は少々前後する。
四日市で修業中の3年目のこと。
仕事は確かで人柄の良い河野板長が、名古屋の鶴舞公園南の天池通りで、「鶴寿司」という店名で独立することになった。
代わりに来てくれた板長はほどなくして男児に恵まれたが、「わが子に君の名前をもらい受けたい…」と言われ、実際に付けてくれたことがあった。
コンビナートの建築工事中の塩浜や四日市港あたりから、お寿司の出前注文もよくあった。自転車に乗り、片手に10~13人前の寿司をぶら下げての配達だが、力仕事で鍛えた私の特技でもあった。
こんなこともあった。
店に沢山のツケを残した建築会社の上役が、早朝トラックに荷物を積んで朝逃げするらしい、という知らせを別の顧客から聞いた。
急きょ駆けつけてみると、荷物を積み終えてまさに出発直前の様子。
「追跡してきます」と店に伝え、トラックの荷物の間に身を潜めた。車はほどなく出発、1号線を西に2時間ほど走った後、信号も何もないところで停車した。
運転手が川沿いの家に入っていくのを見て私も飛び降り、物陰から様子を見ていたが、どうやらここが逃亡先だという事がわかった。
後日集金に来ることを考え、周辺を確認したところ、川の北側には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀(まつ)った「野褒野(のぼの)神社」があった。
また、ここから南へ4キロほどの所には「王塚」や日本の歴史に関わる史跡がカ所あるなど、亀山市の東部と鈴鹿市の西部は非常に神聖な土地だと知った。
「神様が私をこの地に案内してくださった…」と、その時強く感じた覚えがある。
また、こんなこともあった。
入店してから無休で3年間の修行をやり通し、退店のあいさつをしている時、かすかに聞こえる異音に私だけが気づき、店裏のシャリ場で起こった火事を消すことができた。
最後のご奉公になったと、もう一度礼を述べ、店を出ようとした時、私に向かって一匹の亀が歩み寄ってきたのだ。
真昼間の道を、である。
その亀の腹の升目に「セイコウ タツオ」としたため、大成の願いを込めて、近くの諏訪神社の池に放ち、四日市を後にした。
この出来事については後日改めて述べたい。
文:社長 日置
2018/01/27
「金波楼」から望む日本海
(遠くに見えるのは「山陰の龍宮」)
東京タワー
花の神戸は深夜や早朝など四国からの船で着くお客様が非常に多い。
そのため勤務していた店は閉まることなく営業を続け、朝と夜の10時に交代する仕組みとなっていた。
自然と宵の時間にも余裕ができるので、ダンスや空手の道場にも通い、青春を謳歌しつつ体を鍛える事にも専念した。
「庖丁一本 サラシに巻いて・・・」の歌のように、東京での仕事にも進んで出向くことにした。
当時、国鉄の特急でも、大阪から9時間余りもかかったが、各地の街並みなどを観察するためにも、早朝の汽車に乗った。
途中にあるこの名古屋も、とても魅力的に見えた。
東京は人が多く美しい店も沢山あり、活気が感じられた。
瀬戸内海の魚も美味しかったが、東京湾は富栄養で、江戸前の魚のおいしさも感じた。
また、東京は名所や旧跡が多く、寺社・仏閣はじめ美しい庭園も多くあり、知識と感性を養うため、よく休日を生かして楽しんだものだ。
東京での板前修業中の思い出を一つ紹介したい。
当時出来たばかりの東京タワー(1958年12月竣工)に登った。
高さ150メートルの展望台から一望に見渡せる広大な関東平野や、東京湾の美しい青さと沢山の船舶の姿に思わず目を奪われてしまった。
そして、眼下に広がる数えきれない建物やビルディングを眺めているうちに、いつの間にか涙する自分を発見した。
「見渡す限りの全てのものはどれも誰かの所有物だ。中学を卒業してから8年が過ぎたが、未だに自分は何一つ持っていない」そんな情けない気持ちにとらわれての事だった。
「いつかは必ず目に見える大きな店を作るぞ。でなければ、生まれてきた意味はない」新たな決意とほとばしる熱意を抱き、思わずこぶしを握り締めていた。
東京タワーからの風景は自分を見つめなおし、奮い立たせてくれた。
その後、私は山陰・城崎の「松葉かに」の本場、日本海を臨む絶景・日和山海岸で腕を振るった。観光地での勉強も必要と考えてのことだ。
勤めたのは「金波楼」という名の知れた名門旅館が経営する海岸の店だった。
文:社長 日置
2018/01/29
当時の「千石船」の外観
「千石船」の再建
山陰は晩秋になると客が減少するため、私は大阪へ帰るつもりでいた。
そうしたところ、今津芳雄営業部長が、「大阪の立て直し是非行ってもらいたい」と、私のところへ1週間ほど日参を続けてきた。
断り続けているうちに私の頭の中には、かに料理のメニューのアイディアがいくつも湧いてきた。
給与も上げるとの事だったので、8日目にはとうとう承諾してしまった。
私が入社した年、1960(昭和35)年2月に開店した大阪支店の「千石船」は、開店当初はまずまずだったが、次第に下降線をたどり、9月の月間売り上げは30万円あまり、10月に至っては23万円まで落ち込み大赤字となっていた。
翌年2月まで営業を続け、回復の兆しがなければ退却するということだった。
そして、10月末にその店に赴任した。
客が離れ、ここまで衰退した原因はどこにあるのか…。
料理といい接客といい、おろそかにしすぎていないか。外装は船型をしており確かに奇抜ではあるが、入口にサンプルウインドーもなく、開店から9か月の間に一体どんな営業施策をしてきたのか、と不可解なことが多すぎた。
極めつけは、炊事場を担当している古参賄い人の存在だった。口汚く自分勝手な言動が多く、他の社員がお客様をおろそかにし、この賄い人に気を遣っているのだ。
店の雰囲気はチリチリする一方であった。
多忙時を想定しシャリ炊きをやってもらおうと説明したところ、「そんな難しいこと、わいはようやらんで!」と悪態をついた。
この言葉にあえて私は堪忍袋の緒を切った。
「ようやらんのだったら辞めよ!お前がいるから女の子も暗いんや。貧乏神め。すぐ辞めて帰れ!」これほどきつい態度を取ったのは初めてだったが、このくらいの荒療治でなければ"浄化"は無理だと考えたからである。
賄い人を辞めさせた後の職場の雰囲気が、ガラリと一変したのは言うまでもない。
お店の再建の切り札となる、山陰の「松葉かに」の創作料理開発も急ピッチで進めた。
当時はまだ本格的かに料理店は全国どこにもなかった時代である。
茹でて食べるかにをいかに工夫して美味しい料理として食べてもらうか…。同僚との試行錯誤が日夜続いた。
文:社長 日置
2018/01/30
創作した本格かに料理の数々
本格かに料理を創作
やがて「かにすき」「かにの刺身」「甲羅揚げ」「かに寿司」など20種に及ぶ本格かに料理が、日本で初めて生まれた。
特に「かにすき」は、今も「札幌かに本家」の看板商品として絶大な人気を誇っている。
かにと野菜の美味しさを引き出すだし汁が決め手だが、最高のだし汁の開発は、厳選した調味食材と、精進を重ねた私の舌が生かされてされて出来上がったものだと自負している
唯一の味見の道具となる舌を狂わせないため、酒やタバコ、刺激物などを一切口にせず修行に徹したからこそ、最高レベルに到達することが出来たのだと思う。
余談だが、今でこそ「えのきだけ」は鍋料理に当たり前に使われるが、鍋の具材として使うことを最初に考えついたのは、恐らく私であろう。
また、日増しの繁盛を考え、見習いで入社させた西村憲顕(後に大活躍)にできることは任せ、私は極力店に出て来店客に積極的に声をかけ、美しい山陰海岸のスライドを見てもらうなど、創作かに料理をより美味しく召し上がっていただく心くばりを忘れなかった。
同時に進めてきた日置流の体質改善策も功を奏し、暗く沈んでいた「千石船」にも活気と明るさが漂ってきた。
店の繁盛とお客さま満足を第一義と考え、時には上司の意向に反することもした。
例えば、上司は「山陰の魚はうまい」と自慢し食材に使うことを盛んに勧めるのだが、小魚の関係で魚自体が衰弱気味であり、大阪に運ぶ間に鮮度も味も落ちている。
かにや甘エビ、かれい類はまだいいが、それ以外の魚は美味しくないと私は使わなかった。
ある時、それならば…と上司は山陰の、私は瀬戸内海のハマチをそれぞれ持ち寄り、食べ比べを行ったのだが、結果はもちろん瀬戸内海のハマチの圧勝で、上司もそれを認めざるを得なかった。
それ以降、いよいよ自分が信じるおいしい食材を使い、お客さまにアピールした。
懸命な努力は数字に表れた。着任後わずか3カ月で売り上げはなんと10倍となり、目の回るような超繁盛店に生まれ変わったのだ。
松葉かにという食材をメインとし、庶民的な価格で提供したことが当たったとは言え、極端に低迷した店がそれだけ爆発的に伸びるなど普通ではありえないことだ。
しかし、私としてはこれで満足するつもりはなかった。
文:社長 日置
2018/01/31
発展を遂げた「大阪かに道楽」(大阪道頓堀の店)
大阪かに道楽
店は軌道に乗ったが、さらなる事業拡大のためには次の出店が必要と考え、私はすでに行動を起していた。
私が見つけてきた道頓堀西角の超一等地の空きビルの話を上司の今津芳雄営業部長にしたところ、あまり乗り気でない様子だったので、「話しに行ってもらえないなら、先日の店頭販売の話は断りますよ…」、とけしかけた。
最初は渋っていた今津営業部長も背中を押され交渉に足を運ぶようになった。
私としては、決して意地悪をしようということではなく、上司に発破をかける意味もあった。
いずれにしても、これが縁となり道頓堀の角にあった現在の「かに道楽本店」の場所が借りられることとなった。
上司の意向を、すんなりと私が承諾していたら、この話はあるいは実現しなかったかもしれない。
私の対応が大きく幸いしたと考えられるが、いずれにしても「かに道楽」が誕生するのは翌1962(昭和37)年2月のことであり、その店は繁盛し、やがて西日本一の最高立地と言われるまでになる。
城崎の金波楼(日和山観光)から出向して一年弱、「千石船」の再興と発展という使命をやり遂げたと考え、これからの自分の進む道に思いを巡らした。
日本経済は高度経済成長時代に入り、土地や物価の高騰が続いていた。
「これからの時代、大きく生きるためには自分のアイデアを具現化し、新商品の開発や特許を取得しなくては…」そんな思いから、夜間の工業高校に入り、製図の勉強をする必要があると考え「千石船」の退社を決意した。時代の変化に合わせたさまざまな選択肢を持つことも必要だと感じていた。
遅れた勉学を取り戻すため、修業も兼ね、自習の時間が取れる料亭に一時勤めた。
今津営業部長は私のところに日参し、新店の店長にと誘ってくれたが丁重に断り、自分が以前から大切に温めていた「動くかに看板」のアイデアを話した。
そのアイデアは、新開店した「かに道楽」の店頭正面に設置された横幅6メートルの巨大な動く看板として具体化し、後の大阪名物になっていった。
本格かに料理の創作と不振の「千石船」の再興しかり、かに道楽の立地獲得のきっかけ作り(7年後に買取る)しかり、動くかに看板のアイデアしかり…。
私の行ったことはいずれも大阪かに道楽の発展に大きく貢献したと自負している。
文:社長 日置
2018/02/01
学生服に身を包んだ夜学当時の私
かに道楽に再入社
自分の絵心や感性を具現化するため26歳になってから夜間高校への入学を果たした。
1962(昭和37)年のことだ。4~5倍の競争率を突破して合格したのは、大阪市立都島工業高校の機械科である。
クラスでは私が一番年長だったが、向学心に燃え機械設計の基礎を学んだ。
昼は軽金属会社で現場のことを学び、次は機械設計会社に勤務したが、いずれも基本だけを知っていれば後は自分の感性と手腕でどのようにでも応用は効く、という考えがあったからだ。
ちなみに、昼間働いた軽金属加工会社は大阪の東成区・猪飼野という地域にあったが、ここは、かの「松下幸之助翁」がかつて起業した地でもあった。
後の成功を考えれば、ここで商売の神様の運気を分けてもらった気がする。
その後、当時の父親の体調や自分の年齢なども考え、設計の基礎を学んだ私は、その年の冬に退学し、商売の基本である魚やかにの行商に従事した。
自ら出向いて商売する大変さを体得するため、小雪吹きすさぶ中でも手袋をせず、わざわざ来てくださるお客さまのありがたさを身と心に刻んでいった。
"千里の道も一歩から"の格言になぞらえ、選んだ場所は大阪「千里丘」。7年後に大阪万博の開かれた場所でもあった。
自分への試練と捉え、仕入れたものをかごに担いで売り歩いた。すると不思議と「かに」がよく売れたのだ。
「かにはこんなに人気が高いのか…」との思いを新たにした。
また、夜の時間もむだにせず短期の経理学校にも入り、複式簿記も学んだ。将来の経営に携わる時には必要だと考えてのことだった。
1963(昭和38)年、再三の勧誘もあって一度退社した「かに道楽」に再入社を果たす。「京都店」の開設に加わり店長となった。
ところが、冬の時期の繁盛ぶりとは裏腹に、春になると売上は一気に落ち込んだ。春から獲れる北海道のかにのことを、コストをかけずにPRしなければ…。
そこで考えたのが「ふくろう作戦」。
毎晩夜中から明け方まで、1千枚ものPR紙を1件1件ポスティングして歩いたのだ。
犬にほえられたり、警察官に職務質問されたり、説明すると褒められたり、と色々な体験もした。
それでも、1カ月弱続けたところ効果は徐々に現れ、その後夏でもにぎわう大繁盛店へ変貌を遂げていった。
文:社長 日置
2018/02/02
かに道楽の「京都店」
かに道楽京都店店長
京都進出は京極の西隣り、三条寺町の好立地に実現した。
東海道五十三次の西の起点といわれる由緒ある土地だが、なぜか誰が商売をしても半年も持たない、いわくつきの地。
でも私は、そんな噂にひるむことなく「必ず繁盛店にしてみせる…」と、店長としての強い責任感と意欲に燃え仕事に当たった。
連日深夜に実施したポスティングが功を奏し、店は日増しに忙しくなっていった。
また、春から秋まで獲れる北海道のかにをうたったPR紙のポスティングや、ホテル回りなどにも精力的に取り組み、やがて夏でも繁盛するようになっていった。
それに合わせ、人の確保がますます必要となった。当時はまだパートの制度はなかったため、男女の正社員の募集を新聞で行った。
ところが優秀な人材は一向に採用できない。窮余の策として三重の実家に依頼することになった。
親戚や知人にできる限り話をしてくれるという両親に、感謝しつつ望みを託した。
ふたを開けてみると、15~24歳くらいまで給与の9割程を常に仕送りしていた私のことを、親類・縁者はもとより郷里の人たちは"親孝行少年"として、みなしってくれていた。
その信用もあり、「達ちゃんのためなら…」とたくさんの人が協力をしてくれたのだ。その後、真面目な若い子が私の父に引率されて、昨日は1人、今日は2人と、店員や板前見習いとして次々に入社してくれたのだ。
その若い社員たちに、調理の心得や接客のマナーなどを、毎日の朝会や現場で実地指導していった。もともと「伊勢っ子正直」と言われている地域の子たちであり、誠実な働きのお陰で、忙しさがピークとなる年末年始も難なく乗り切ることができた。
京都店は山陰から直送の松葉かにの美味しさ、おもてなしの良さが受け、秋から翌3月まで繁忙期を迎える。
レジの前だけでなく、階段まで一列に並んで待っていただくのが茶飯事で、今では考えられない忙しさだった。
こんなことがあった。12月の繁忙期に用事を思いつき事務所に入ったところ分電盤が何の前兆もなく火花を散らし燃え上がったのだ。すかさず古い衣類でたたき火を消し、事なきを得たが、まさに奇跡的な幸運だった。
文:社長 日置
2018/02/03
奇跡に護られた瞬間
(イラスト・筆者)
数々の奇跡
京都店は、真面目でよく働く伊勢の若い人たちの尽力で大繁盛店になった。私もそれに甘えることなく、お盆前や年末には、引き続き社員として働いてもらうことと、次の人をお願いするため、ふるさとの社員の家を回った。
手土産とパンフレットを携えて、まさに「野越え、山越え」の訪問だった。
なかには、行って戻るのに1時間近くかかる山奥の社員宅もあった。
肩に10キロほどのみかん箱を担ぎ、山路を往復30分、お礼と様子を伝えるのに10分という具合で、すべてを回り終えるのが夜になることもしばしばだった。
自分の仕事は徹夜してでも片付け、不眠不休で頑張っていたお陰か、ある時「神仏のご加護」としか思えない出来事に遭遇した。
店の3階で食事をされていたお客さまのことである。3歳くらいのお子さんを高さ1メートルほどの窓に乗せて遊ばせていたところ、そのお子さんが窓から下に落ちてしまったのだ。
高さは10メートルもある。下に落ちれば大惨事は免れない。ところが、何と3階と2階の間に、壁から釘が2本頭を出していて、そこにお子さんの衣服が引っかかり逆さ吊りの状態になっていた。
釘などなかったはずなのに…。
しかも運よく私が2階の窓際にいたため、すばやくお子さんを抱き上げることができた。
泣きじゃくってはいたものの全くの無傷だったことに、全員がほっと胸をなでおろした。奇跡に護られたと、実感した。
1964(昭和39)年11月には、日和山観光(かに道楽)の今津芳雄常務(元営業部長)の次女をめとり、店の一部を借りて住むようになった。
その後、大阪での店長会に参加した時のこと。いつもより早く終わったため京都に直接戻ったところ、あろうことか店の裏隣が出火していたのだ。
店員はパニックとなり右往左往していたが、私はこんなこともあろうかと事前に用意していた簡易式の消火設備を使って放水し、類焼を防いだ。
当時はまだ、消火設備の法的設置義務などなかった時代である。水道圧でも遠くまで水が飛ぶように中古のノズルやホースを準備していたのは、先見の明であった。
隣は丸焼けだったが、ここでも奇跡が起こった。
文:社長 日置
2018/02/06
名古屋第1号店の「住吉店」
(開店当時)
名古屋進出
京都店店長を兼務しつつ名古屋へ進出したのは1967(昭和42)年のこと。
当初、名古屋では大阪風の薄味は受け入れられないだろうと言われた。
また「和風の着物を着ての接客は風俗営業ではないか…」と警察からあらぬ指摘を受けたこともあり、この時はさすがに「日本人が着物を着て接客することのどこが悪いのか!」「名古屋の人は日本を忘れたのか?」と警察に問い詰めたこともあった。
パートタイム雇用の高まりも手伝って、小さな新聞募集広告で170人もの応募者があり、選りすぐりの人たちを採用することができた。
寿司と天ぷらの店を買い取って一部改造し、6月に中区住吉町に「かに道楽名古屋店」(後の「住吉店」)を開店した。
8月には真夏にもかかわらず、連夜満席となる盛況振りとなった。
名古屋で商売を成功させれば、どこに行っても通用する―。
それほど厳しい土地柄とも言われており、一時の結果におごることなく、今まで以上の覚悟と努力で一層商売に励んでいった。
さらに69(昭和44)年には中区・錦に、土地付きの中華料理店を買収し、第2号店として「錦店」を開店した。
この店も専門の設計士に図面を任せていたが、自分が思い描いた店舗にはなっていなかった。それならば、と自分のイメージどおりの店舗作りを目指して、それ以降の設計図は自分で画くようになった。
かつて夜間高校で学んだ機械設計の基礎力を、独学によってさらに深め、店舗設計に生かしていくことになった。
両店舗とも順調に売り上げを伸ばしていった。
誠心誠意尽くす姿勢を、お客様が評価してくださったのだという大きな自信となった。
いよいよ独立して自分で商いをしたい、と強く思うようになった。
1969(昭和44)年に独立を申し入れたが断られ、改めて2年後に「ここは引けぬ」と覚悟を決め交渉に臨んだ。
大阪からの独立交渉は困難を極めた。独立すれば自分たちにとって大きな脅威になる、との危惧があったのだろう。
1964(昭和39)年、当時大阪の責任者だった今津芳雄常務のすすめによる次女・梅子との婚姻も、私の動きを見越したけん制の意味もあったのでは、と疑ってもみた。
文:社長 日置
2018/02/07
後の「栄店」となるパチンコ屋
(中央)
「大阪」からの独立
今津芳雄常務側からの結婚話も含めた再入社要請の際には、5~7年後には独立の考えがある事を伝え、了解をもらった上でのことだったので、強い意向での交渉だった。
独立に対して頑として引かない私の態度に大阪側もついに折れ、先方から交換条件が提示された。
「こちらで不動産を購入し工事費用も出すから、日置は自分で会社を作り好きなようにやればいい。ただし、もうかれば経常利益の半分を家賃として支払うというのはどうか…」
この提案に、まず子どものころの「年貢納め」の空しさを思い出した。また当時、堅調な業績を評価して無担保融資を申し出てくれる銀行が2行もあったため、正直迷いもした。
だが、ここは、かに・人の縁・社員のことも考え、大阪側の条件をのむことにした(このやり方は「利益折半」という昔からよく用いられた方式だ)。
1971(昭和46)年、ついに名古屋・栄で独立を果たし「名古屋かに道楽」を創業、第1号店の「栄店」を開店した。
元々はパチンコとマージャン店のビルだった。当時の久屋通りはまだ人もまばらで、今の松坂屋北館あたりは農協の朽ちた古倉庫と草むらが広がっていた。
その北隣に当たるのがこの3階立てのビルで、面白い店舗が造れそうな格好の物件に思え、心が動かされた。
購入するか流すかは、運試しの結果とした。
「日頃は縁のないパチンコで、運よく玉が出れば買い取ることにしよう」
そこで100円を元手にやってみたところ不思議と玉がどんどん出て来る。幸運の女神が微笑んだのか、交換したら景品は500円になった。
「これはツイている。買えということだ!」パチンコの結果にも後押しされた形となった。
この決心はずばり当たり、「栄店」は開店当初から好調な滑り出しを見せた。またこの土地のことを調べてみると、意外なことがわかった。30年ほど前に首相になられた海部俊樹さんの誕生地らしいとのことだった。
南隣の農協の地には、松坂屋北館が完成し、人通りが増え、バブルが崩壊する1991(平成3)年までの10年程は、年商10億円を超える大繁盛店となった。
文:社長 日置
2018/02/08
栄店
往時の外観
栄店のエピソード
店には風情や情緒も必要と考え、奥の正面には京都の銘石である大紅賀茂石を据え、清水が流れる小川には、天竜の赤石や、四国の青石を配し、美しさを演出した。
その小川には沢かにを放し、お子さま連れにも喜ばれる店を造り上げた。
そんな栄店で起こった2つの出来事を紹介したい。
2008(平成20)年のことである。
外国に出向くため空港で待機していた時のこと、携帯に突然店舗のボヤの知らせが入った。
あと10分程で飛行機に乗るところを急きょキャンセルし、急いで戻ると、火は既に鎮火していた。
漏電により寿司場は丸焼けの状態。消防も出動して大騒ぎとなったが、消火活動もそれほどせず、結果として大火災にはならなかった。
店の4階には私や家族の思い出の品々があったが無事に残った。また、隣のビルや家や裏の松坂屋さんにも、一切のご迷惑をおかけしなかった。一体何が起きたのか…。
店舗1階の天井には、私が集めた「すす竹」など、たくさんの竹材が使ってあったため一気に燃え上がり、内部が酸欠状態になり鎮火し、それ以上燃え拡がらなかったのだ。
また、店の外装として梁型の飾りが56個ほど付いていた。
ケヤキ材の株や節木で作ったもので、1つの重量は10~15キログラムの重さだ。店頭に出っ張った飾りは安全対策の養生はしていたものの、自重と37年の風雨の影響でいつ落ちるかわからない状態になりつつあった。
ボヤを通して、神仏が私に警告を与えてくれたのかもしれない…と、感謝の念を強くした。
逆にこんなこともあった。
松坂屋北館の工事が進められていたのだが、工事中に土砂がたくさん流れ出て、かに道楽栄店の屋上のクーリングタワーに入ってしまった。
賠償を求めず、掃除だけをしてもらい、「今後、接待などで店を使ってもらえるならば」と許したのだが…。
通常なら15年~20年は持つはずの大型空調機が、わずか1年ほどで2機とも使用不能という有様だった。
あほうと思えるほど気の良い私の失敗談だが、その分たくさんの恵みを受けたと思っている。
文:社長 日置
2018/02/09
かに道楽京都店と一部大阪店のスタッフ
(1964年元旦)
力自慢のエピソード
かに道楽栄店の順調な推移に住吉店、錦店も加わり、名古屋での事業は拡大した
それに伴い、私を慕って京都店で働いてくれていた人たちも、必要人数だけを残し、京都から名古屋へと移動してもらった。
名古屋でも調理見習いや若い店員を集めるのが困難な中で、私は全く苦労せずに済んだ。
その社員たちが結婚したり、早朝野球で交流を深めたりと、ますます良好な人間関係が出来上がっていった。
そのころの私は、かに道楽の親会社である「日和山観光」の非常勤取締役を務めていたため、年に1、2回は懐かしい山陰に出向くことがあった。
そんな時には、不振の大阪支店の人心改革やかに料理の創作、道頓堀の土地取得の縁づくり、動くかに看板の考案などの話をしたが、「そんなことも日置くんがやってくれたのか…」と、役員たちに事実を知ってもらえた。
1960(昭和35)年、私が日和山観光に勤めていたころのエピソードを紹介したい。
夜の余暇の時間は、近くの城崎温泉などに出かけ、飲んだり遊んだりするのが普通なのだが、私は違った。
もちろん、宴会などで金波楼が忙しい夜は手伝いに入るが、それ以外の日は、体力作りにと神戸で始めた空手の練習に自転車で通っていた。
ある日それを聞きつけ、空手を習いたいと同行してきたのが、当時の警備部長だった。
彼は水族館長も兼務しており、力自慢で通っていた。
とある場所に65キログラムもあるバーベル型の鉄車輪が転がっていた。これを持ち上げる人がいるとの話を聞き、それならば…と私も挑戦してみた。
最初に10回ほど持ち上げてみたが、腕を痛めると仕事に支障が出るから、と中断した。
いつも力自慢で鼻高々のその館長は、自分もこのくらい軽いものだと高をくくり、ニヤニヤしていた。
ところが、いざやってみると1回目は肩まで、2回目は腰までがやっとで、それ以上は続かなかった。その時の館長の驚嘆ぶりは忘れられない。
私の腕力は仕事で鍛えられたものだ。魚の入荷や力仕事の時には、いつも気軽に加勢していた。
これが評価され、大阪支店への赴任につながったのだと思っている。
文:社長 日置
2018/02/10
日和山海岸をバックに
五分の魂
1974(昭和49)年、山陰・日和山観光の取締役会でのことである。
当時、私のつくった新会社は極めて順調で、年間1.5~2億円ほどの家賃を納めるほどになっていた。
それをいいことに、大阪側はさまざまな無理難題を押し付けてきた。暗黙の了解だけで、文書化していなかったのも原因だったが…。
大阪側より、「不動産は大阪のものだし、株も3分の1は所有しているのだから、名古屋は実質大阪のものだ」と、心ない発言が出た。
それに対して私は、「一寸の虫にも五分の魂がある!」激昂し、机を叩いて退場した。
私を引き止めるための策にあえて乗っただけのことで、株にしても縁を大切にしたい、とあえて持ってもらっただけなのに…。本当に面白くなかった。
「日置さん待ってくれ。考え直して…」と、すぐに他の役員が私のもとへ走り寄ってきた。
ところが、この出来事が思わぬ好転へとつながっていく。キレることがめったにない私の、この時の行動は、大阪側に大きな驚きと刺激を与えたのだろう。
社長の実弟・今津芳雄常務の次女をめとっているため、ほとんどの役員が私と姻戚関係にあたるのと、私が大阪や京都、名古屋で繁盛店を気づいてきたことを知ってくれていることも功を奏した。
親子けんかをさせてはいけない、との思いもあったのだろう、私に対し、土地その他一切を売っても良いと言ってきたのだ。
これに対してまず私は、土地の資産や店舗その他を加え5億円ほどのものを12億5千万円で買い取ることにした。
さらに、大阪側の意向に変化があり、買ったまま手付かずにしていた駅前の土地や、工事中の八事店も合わせて買い取ることにした。
合計すると20億円にもなったが、運よく関西の大手銀行が、私の応援をしてくれていた。その時の担当者とは、今でも親交があり感謝の念に堪えない。
また、大阪や京都、山陰や四国には出店しない事を「紳士協定」とする旨を大阪側に伝えた。
さらに数年間はお礼金を出すという事で話を全てまとめ上げた。
そして、持ってもらっていた株を買い取るために新会社を設立することにした。
文:社長 日置
2018/02/12
往時の「女子大小路店」
競合店の出現
名古屋での新しい会社は、大部分の株を私が持ち、そこに社員株を加える構成で立ち上げることにした。
私の思いをしっかり実現し、社員と喜びを分かち合いたいという強い思いからだ。
そのころ、かにを使った競合店が出てきた。どんどんPRをするので当店と間違って行かれたお客さまから、たびたび苦情が寄せられた。
「このままでは、せっかく築いてきた信用を落としかねない。何か手を打たなければ…」との危機感を持ち始めたところ、名古屋栄・女子大小路の競合店の近くに小さいが最適の出店用地が見つかった。
その土地を下見に行った時のことである。その店の社長とバッタリ出会ったのだ。「ここでやられるのですか…」―。その後の言葉が続かなかった。
かに道楽が出店してくるのかと、急に青ざめていく社長の顔は今でも鮮明に覚えている。
さっそく大阪側に、「その土地を購入し新会社の本店にしたい」と伝えた。
すると、今津芳雄常務からは、「その土地を担保にするだけでは店は建てられない」と一笑に付されてしまった。
「できた店と土地を担保に入れてもらえれば、無担保で2億円を融資してくれる銀行がある」と伝えると「銀行から借りられるのは、せいぜい担保の6~7割。そんなはずはない」と驚いた様子だった。
既に話は付いていたのだが、どうしても信じられない今津常務は、「一度確かめに行く」と、後日わざわざ銀行に同行することになった。
融資担当の役員から、「日置さんは熱心だし、商売もうまい。無担保で貸しますよ。店ができてから担保にもらえればいい。大阪さんの保証も印鑑も必要ありません」という言葉が伝えられた。
今津常務は、けげんそうに首を振りながらも、納得するしかなかった。
そうしてでき上ったのが「かに道楽女子大小路店」(1977年12月開店)だった。
基本設計や店内レイアウトは、すべて私が手掛けた。
今はもう店はないが、「かにの穴」や「洞窟座敷」「店内いけす」など、温めていたアイディアを存分に生かし、独創的で優雅な店舗が実現した。
文:社長 日置
2018/02/13
現地漁労会社の社長と私(左)
仕入れルート開拓
「味覚の王」と呼称されるタラバかにを芯に巻いた「かに太巻寿司」が良く売れ、平日でも夕方になると、店頭に5~10人ほどのお客さまが並ばれるようになった。
口コミでの評判もあり、評価はうなぎのぼりとなった。
ところが、当時「200海里問題」が国際的に議論されるようになり、かにの入荷が困難をきたすようになってきた。
「国内の資源にだけ頼っていては、この先はない」と、海外からの仕入れの必要性を強く感じた私は、直接アメリカ行きを決意した。
1976(昭和51)年のことだ。
チャレンジ精神は旺盛だが、ろくに英語も話せない私が、現地での通訳を手配しただけで単身初渡米に臨んだ。
今から思えば、大きな冒険であり、ずいぶん無茶をしたと思うが…。
その時の飛行機には、日本人は私以外いなかった。
アンカレッジを経由してのフライトだったが、遠くに連なるマッキンリーとロッキーの山々の美しさは別格だった。
空港に着くと、通訳のデビット・キーンが私を出迎えてくれた。
ドイツ系の好青年で、背は193センチと高い。
40歳とまだ若かった私は、はたから見れば、その身長差もあって親子に見られるのでは、と思った。
現地ではデビットと2人で精力的に動いた。かにの漁労会社に交渉を続けた結果、幸運にも優良な会社とタラバカニの直輸入で契約を結ぶことができた。正直安堵した。
成果を喜びつつ帰国する日になって、デビットが突然こんなことを言い出した。
「ぜひ私を社員にしてほしい。社長はまじめだし、信用できる」と。しかも日本式に土下座までしての懇願だった。
後日、デビットを社員として採用した。デビットは現地の仕入れ要員として、それから長く活躍することになる。
国内の食材店からの取引が普通だった当時、米国の漁労会社と直接取引の路を開いたのは日本の外食産業としては恐らく初めてのケースではなかったろうか。
常に行動主義で体当たりしてきたことが、ここでも実を結んだ。
文:社長 日置
2018/02/14
極寒でのタラバかに漁
アメリカでの出来事
2回目に訪米したときの思い出も強烈である。
アメリカでは土曜、日曜はしっかり休むのが基本だ。ビジネスで来たからには1日たりとも無駄にはしたくなかったが、漁労会社が休みとあっては致し方ない。
それならば、と気持ちを切り替え、西海岸の観光地の視察と外食事情の探索に出かけることにした。
通訳のデビットは、当時付き合っていた彼女がいたため、土、日だけは休みがほしいとのこと。
2人の時間を邪魔するような野暮はしたくないと、私1人で行動することにした。
向かったのはサンフランシスコとロザンゼルズ。
景色や町並みは電車から眺めるのが適当だろうと考えたが、何時間かかるかわからないからと、デビットから止められた。
何しろ米国は、ジェット機で西から東に移動するのに、優に4時間はかかる広大な大陸なのだ。
1日目はサンフランシスコへ向かいフィッシャーマンズワーフや街見物に費やし、ダンジネスというかにも食べた。
2日目はロサンゼルス。ここでは一大レジャーランドである「ディズニーランド」にも足を伸ばした。
ところがその帰り道に事件は起きた。
たまたま乗ったバスの中で、疲れのためかついうとうとしてしまい、気がついたらなんとバスの終着地だったのである。
「しまった!」と後悔しつつバスを降りた。
車庫の横に出ると、そこはスラム街のような場所で、見ると周囲には10人ほどの屈強な体つきの黒人たちがいた。
獲物にありつけたような目つきで、嫌な笑みを浮かべながら、私を広く取り巻き、じわじわとこちらに歩みを進めてきた。
正直、「まずい…」と思ったその瞬間、なんとどこからともなくタクシーが走り寄ってきたのだ。
この偶然、そしてこの幸運。手を挙げて滑り込むように乗り込んだ瞬間、一気に汗が噴き出し、肩の力が抜けてしまった。
なお、デビットはその20年後に独立し、自身で水産会社を立ち上げ、大きな成功を手にした。
当社の社員として、誠実な日本式の商売のやり方を身につけた結果ではないかとうれしく思っている。
文:社長 日置
2018/02/15
福岡市・天神にあった「福岡店」
福岡への出店
栄店、住吉店、錦店の土地、建物他一切を合わせて5億円程度だったところを、あえて上乗せし、12億5千万円で大阪側から買い取ることにした。
それは私と社員で築き上げた価値であり、惜しいという気持ちは全くなかった。
社員がひたすら努力した結果、名古屋のお客様に喜んでいただき繁盛したのは、松下幸之助翁の「世間は正しい」という言葉にそのまま当てはまるものだと、心からうれしく思った。
工事の遅れていた八事店と駅前店の土地約1000平方メートル、それに栄3丁目にある社員寮を含め少し上乗せすると7億5千万円程度になるため、12億5千万円と合わせて、きりの良い20億円で買い取ることに決まった。
そのような事情とはいえ、20億円は気前の良すぎる金額かもしれないが、大阪側の高く売りたいという魂胆と、名古屋はその土地を生かせる、と踏んだ上での結論だった。
その上、金もうけと親心からなのか、「5億円ほどは最初にもらい、残金は後でよいから利息で稼がせてほしい」との提案があった。
当時、銀行金利は7.5~8%という高利だった。それをさらに上乗せし10%にしてほしいとのことだったが、即座に了承した。そこには私の狙いもあった。
今後予想される人材確保と新地開拓のため、手元にお金が必要であり、具体的には札幌・仙台・福岡などに出店することを考えていたのだ。
利息10%を決断した翌日、私は早くも福岡行きの飛行機に乗っていた。
日本飲食産業協会の友人に会って街の様子を聞き、今後発展しそうな地域のアドバイスも受けた。
「天神の西通りが良いのでは…」、との言葉にすぐに現地に向かい、約640平方メートルの空き地を見つけ、購入を即決した。
名古屋から帰ると先ほどの不動産屋から電話があった。「決めていただいた30分ほど後に、その土地を欲しいと、別の名古屋のかに料理屋さんが来ましたよ」と。
「他にもそんなかに料理屋さんがあるのですか…」とけげんそうに聞かれる一幕もあった。
この土地の取得も、神がかり的な絶妙のタイミングが働いた。そこからも繁盛店になりそうな兆しを強く感じた。
文:社長 日置
2018/02/16
シンボルの「動くかに看板」
動くかにの看板
時は少しさかのぼる。
名古屋・栄にある3つの店が順調であったため、次は東の要所をと考えていた矢先、今池に良い土地があるとの情報が入った。
その土地が気に入った私は、大阪の今津芳雄営業部長(当時)を伴い、2度目の視察に出向いた。
すると、その斜め向かいにも、かに道楽ができると、他の人から耳を疑うような話を聞かされた。
「そんなことはあり得ない」と疑ってみたが、論より証拠と見に行ってみてあきれた。それらしき店ができつつあったのだ。
誰がやろうとしているのか、全く不明だった。
その3日ほど後、某ビール会社の仲立ちで頭を下げにきた人物がいた。
夜の商売を営んでいる人であったが、「他のところには一切出店しないので、そこだけは商売させてほしい」と懇願された。私はその言葉を信じ、そこへの出店を見合わせた。
やがて開店したその店の看板は、足をだらりと下げたかにの形をしていた。
その翌年、名古屋駅前の錦通り北側に160平方メートルほどのすし屋の売り物が出た。
早速調査に行くと、その150メートルほど先に、今池でかに料理を営業している店が、新たに出店する用地を取得しているとの噂を聞いた。
「わが社の方が立地もよく、立派な店もできるので、どちらが繁盛するか戦ってみたい」。そう考えた私に今津営業部長は、「相手も人間だ。もう一度だけこちらが引いてみてはどうか」と提案。
結局は情けをかけ不動産手数料も私が持ち、その地を譲ることにした。
その地にできる店には"かにの網元"という大阪のキャッチフレーズの看板が真似されるのでは、との予知が働き、その登録を取っておいたところ、まさに予感は的中した。
それらしき看板が付けられたので一報すると、間もなく看板は解体された。その後、今池のかに看板の足はだんだんと上がってくるようになった。
私たちが新しいアイディアを出すと、10日も経てば、それに近いモノが先方にもできているということが続いた。
極めつけは、かにの看板を造る業者を抱き込んだことである。
「お金をもらってしまったが、どうしたものか…」と業者が悩んでいるということを、私は友人から聞かされた。
文:社長 日置
2018/02/17
「八事店」1階の優雅な滝庭園
「動くかに看板」訴訟
当時は不正競争防止法という法律はまだなかった。
そのため、同じような「動くかに看板」を取り付けられても、手の打ちようがないのが現実だった。
大阪の今津芳雄営業部長(当時)が、相手側に電話で抗議したところ「名古屋では日置さんにいつもいじめられている。話があるなら事務所に来ればいい」と言われ、ついに動くかに看板の訴訟へと発展していった。
それでも相手の事を考え、和解という形で事を収めたのだ。
この事件をきっかけに、動くかに看板は、私が考え出したということが、初めて一般の人たち(特に関西の人たち)に、わかってもらえた。
また、大阪側の報道各社への対応も良くなかった。
弁護士費用や裁判費用は、大阪・名古屋が折半であるのに、大阪は5社ほどの子会社の名を連ねたため、名古屋も大阪の子会社と同等に見られたきらいがあった。
ある新聞は「大阪と名古屋の戦い」と見出しに大きく打ち出し、誤って私たちを悪者ととらえる人もいた。
少なくとも半分以上はそうだったのではないか。なんとも口惜しい思いを経験した。
大阪でかに料理を創作して、不振の店を繁盛店によみがえらせ、道頓堀の場所も探し当て、動くかに看板も考案したのは、札幌かに本家社長である私であることを、あらためて多くの方に知っておいてほしい。
さてここからは、札幌かに本家各店舗の様々なエピソードを順次紹介していきたい。
名古屋市昭和区にある「八事店」は、最も古い現有店舗である。
古刹・興正寺の境内にある山すそを掘削して店にしたらどうか、との話をもらった。
そのためには5メートルほどの擁壁が必要となるが、そこに自然に近い大きな滝を作り、2階や3階は裏山を借景にした優雅な雰囲気を醸し、建物は飛騨の匠にお願いすれば、素朴で味わいのある店になると、その話に乗った。
そんな店づくりのコンセプトやアイディアをはじめ、店舗設計、岩や材木、大工の手配など全て私が手がけることになった。
そして思いが十分に生かされた店舗が完成した。
文:社長 日置
2018/02/19
岡崎城の北メートルにある「岡崎店」
八事店と岡崎店
八事店の造作には、家具職人の宮末敬一郎氏が尽力してくれた。
人柄が良く、彼を慕う当社の工事部員も育っていった。また、庭師の榊原篁之進氏は、若手ながらセンスの良い仕事をしてくれた。
されに大工は、わざわざ飛騨から来てもらいその腕を発揮してもらった。
開店前日のこと、1階の滝の流れを良くしようとハンマーとチスを持ち、自ら水の落ち口の石に向かった。
いつもやっていることだから、と高をくくっていたが、いくら力を入れて叩いても固いメノウの入った岩のため、チスが跳ね返されてしまう。
力自慢の私も、結局あきらめざるを得なかった。
お客様からは開店当日、こんなうれしい評価をいただいた。
昼過ぎに菜っ葉服を着て玄関先の土の汚れを洗っていた時のこと。
食事を済ませた中年のご婦人だったが、奥様が初老のご主人に、「美味しかったし、美しいいい店だったわ。こんな店の社長の顔が見てみたいわ…」と私の目の前でぼそりとつぶやいた。
「その社長だったらここにいますよ」と言ってしましたい気持ちを抑えつつ、苦笑しながら「ありがとうございました」と丁寧にお見送りをした。
1980(昭和55)年の夏には、岡崎店を開店させた。店内に川が流れる風情のある店だ。
1階の奥は少し上げ気味にして川の流れを作り、滝石は九州・椎葉の石が使ってある。
子どものころの貧農の思い出や、妹や弟の子守の思い出が重なる「五ツ木の子守唄」が大好きだった。
そこに好奇心も加わり、熊本の山奥・五ツ木村にも庭石を求めて、何度も足を運んだ。
当時4トンのクレーン車を(ユニック)を持っており、大阪からフェリーで海路を西へ向かい、北九州に上陸。
そこから南下して、八代に入る。途中、球磨川に沿って人吉から五ツ木村へと入り、椎葉村を経由して帰途に着く。
こんな風に、さまざまな郷愁や思い出を味わいながら良い石を選んで購入し、店に据えるのも望外の楽しみだ。
当時は近くにジャスコや松坂屋、シビコなどの有名な店もあったが、撤退が続き、岡崎店の周囲はすっかり寂しくなった。
しかし、私の祖先は徳川家康の家臣だったこともあり、たとえ自店舗だけになってもこの地域を死守したいと考えている。
文:社長 日置
2018/02/20
斬新な造りのかつての「福岡店」1階
「福岡店」の趣
1982(昭和57)年、名古屋まつり三英傑の「徳川家康」役に選ばれた。2年前、寺島営業部長が申し込み、合格はしていたのだが、その時は、「家康ゆかりの場所にまだ出店していない」という理由で断ってしまった。
それだけに、今回は胸を張ってお引き受けした。伊勢の郷里から母も見物に来てくれ、家族とともに喜んでくれた。
2年後の9月には、福岡の店を開店させた。
魚の美味しいところだけに、大きないけすを造り、船を浮かべ、その中で調理するという斬新なアイディアを形にした。
全長6メートルの船を造るのに、船大工の了解はもらったものの、翌日には「それだけ長い板は福岡にはない」との電話が入った。
それならば、と当社の名古屋工場から材料を送り、事なきを得たという一幕があった。
また、店内は1000平方メートルの広さがあった。
そこに使うケヤキの柱材や赤松の大梁(はり)は、いったん高山に送り、私の図面に合わせ加工してもらい、その後、福岡の現場に送った。
2階や3階に材料を揚げる時は、真夜中にクレーンで、窓から入れた。
同様に、五ツ木村や椎葉・球磨川の雲竜石、四国の青石など庭石の搬入もクレーンが使われた。
設計や各材料の手配などを手伝ってくれる社員はいても、すべてに精通する者はいないため、私自身渾身の力を注ぎ、寝る間を惜しんで完成させた。
この店も順調に推移したが、2005(平成17)年3月に、福岡正方沖地震に遭遇した。
大きな揺れで近辺の店は相当の被害を受けたようだが、私どもの福岡店は、意外なほど無傷で済んだ。
店内の庭の石が動き、その下の土に施設してあった給排水がつぶされ、庭の散水などに影響が出てしまったのと、調理場内で熱い油が飛び散り、2人が軽い火傷を負う被害はあったが、なんとか翌日には営業を再開することができた。
そんな福岡店だが、場所的にあまりに繁華街に近すぎて、団体の観光バスが入れないという欠点があった。
幸い土地の値段も上昇しており、売値の半分ほどの資金で、別のところに店を持てるのであれば…と考え、土地、建物を売ることにした。
文:社長 日置
2018/02/21
四国に出向き、庭石を調達
自称・特級建築士
福岡市で新しい出店用地を探していたところ、天神の中心街から南に1.5キロメートルに位置する「那の川」の角地に、手頃な良い土地が見つかった。
660平方メートル弱とあまり広くはないが、高級住宅街の入口的な場所で、建物を5階建て程度にすれば目立ちそうな有望地だった。
天神の店を売却する半分の金額(13億円)程度で開店できれば、と考え手を打った。
1階には調理場を設け、魚やイカ、かにのいけすとカウンター席を作った。2階から5階の各階には、外に少し広めのベランダを作り、そこに庭を配し、全室から銘石庭園が楽しめるようにした。
庭園は全部で36カ所になった。
私は「自称・"特級建築士"」と他人にも話をし、自分でもそう思っている。しかしその店の設計や工事は日頃からお世話になっている人の勧めを採り入れ2階と3階だけは地元・福岡の工務店に委ねた。
ところが木材の質やフロアの感覚が、私としてはどうもしっくりこない。
さらにケヤキの柱や赤松の梁(はり)、上質杉などの無垢材を生かし重厚に仕上げた「日置流」の費用と、さほど大差のないこともわかった。
改めて、自分の店造りの方法に、自信と確信を深める結果となった。
それは世界中で私しかできないやり方でもある。自ら設計を行い、材木は競り市で元値で競り落とす。その原木を製材し、自然乾燥させ、その材料を使って飛騨の匠に決めた坪単価で店造りをしてもらう。
庭や坪庭は、チェーン全店で250カ所ほどあるが、私の構想と感覚で画いた図面を基に庭を造り上げてもらう。
銘石の調達は、北海道、天竜、四国、九州などの産地に出かけ、選んだ庭石を元値で買い付けてくる。
植木は、稲沢の矢合の競り市で買い付ける。
専門の庭師に石運びや立て起こしなどは手伝ってもらうが、社員にも工事に加わってもらい一緒に造り上げる。
石にも一つ一つ顔があり、芸があり、天場がある。その良さを最大限、美的に生かす、これが「日置流」なのだ。
文:社長 日置
2018/02/22
「札幌駅前本店の外観」
札幌進出
話は少々回り道したが、福岡の大型店の工事中に、大阪の今津芳雄常務から電話が入った。
「札幌にも出店を予定していたが、裁判の相手に先を越されてしまった。大阪には武将がいない。日置君が出てくれないか」とのこと。
もともと札幌には大阪が出るのだろうと思っていたので、躊躇していた私にとって、この話はむしろ朗報であった。
ススキノには既に18年ほど前から、かに料理店があった(私はさらにこの23年前に、日本で初めて、かに料理を創作していた)ものの、「札幌でも、本家の心意気を示してきますよ」とすぐに快諾した。
札幌の出店用地は当社が「本家」であることを示すためにも、どうしても好立地が必要だった。
札幌駅前の東急デパート南向かいの角地に、1890平方メートルほどの出モノがあり、入札したところ僅差で購入が決まった。
後日、前所有者のテナント処理を担当した建築業者、T社から、「この土地は雑誌社のボス、その他が関わっており、大手のわが社でないと話が進まないので、工事を任せてほしい」との話があった。
嫌な予感がしたので、念のため胸ポケットにレコーダーを忍ばせ録音しておいた。
その後、7階建てビルの軀体だけの見積もりを取ったところ、5億円という高価格の提示があった。
それらの経緯を知人に話したところ、その雑誌社のS社長とも親交があるとのことで、真偽を確かめるため、早速訪問した。
生真面目で実直そうな社長は、「私はそのことを一切知らないし、むしろダシに使われた!」と立腹その場でT社に苦言の電話をかけた。
自体は大きく動いた。
翌日、S社長から私に電話が入った。
「先ほどT社が来て、『そんなことを言った覚えはなく、日置さんの勘違いだろう』と言っている。どちらが本当なのか?」と。
私はすぐさま札幌に飛び、ポケットレコーダーの記録をS社長に聞かせた。真実がすべて明るみにさらされた瞬間だ。
その後、他の業者に見積もりを依頼したところ、4億円で工事は収まるとのこと。
余計な1億円の出費を抑えることができた。
文:社長 日置
2018/02/23
苫小牧の海水循環式大規模いけす
札幌店の開店
札幌店は1985(昭和60)年3月に無事開店した。
かにの売店を入口の一角に設け、そこに海水のいけすを造り、タラバかにや毛かにを入れた。
北海道在住の方々も、生きたままのかにをあまり見ることがないのか、朝から夜まで常に20~30人の人だかりが連日続き、絶好のPRにもなった。
飛騨からは25人ほどの大工さんに来てもらった。
雪のちらつく深夜、7階建ての各階に、窓から太い柱や松の梁(はり)などを搬入してもらい、重厚・豪華な美しい店造りに尽力してもらった。
また、この土地の縁をいただいたS銀行と拓銀(当時)の2行で、総額15億円の融資を受けられたことにも感謝している。
福岡の工事から始まり、1年少々で大型店を二つ完成させたが、毎日毎日、深夜まで図面を描き、昼間は材木や庭石などの選別や現場の確認、指示など、一心不乱に店造りに没頭した。
札幌店の出店に合わせ、苫小牧に生簀を備えた大型発送基地を造りたいと考えた。千歳空港から車で30分ほどの便の良さ、毛かに・ホッキ貝などが獲れるという利点があったからだ。
運よく苫小牧魚市場の近くに、最適な土地が見つかり、そこに海水を引き込み、毛かにタラバかに、ズワイかに、ホッキ貝などを備蓄する基地を造った。
山陰の松葉かにや北陸の越前かには、11月~翌年3月末までが漁期だが、北海道では毛かには年中獲れ、ズワイかには4月ごろから獲れる。
幸い浜仕入れの入札権を持っており、元値で手に入れたかにやその他の魚介類は、鮮度の良い状態でここから全国の各店舗に空輸配送することができるわけだ。
北海道からのかに仕入れは昭和40年ごろからで、そのころは東京から千歳へ飛び、札幌駅で夜10時ごろの夜行列車に乗り、稚内や紋別へと向かう。早朝に到着するので長旅の風情があった。
うにを求めて利尻や礼文、羅臼、えびを求めて、野付半島へ向かった。甘えびは羽幌などへと出向いた。
遠くは米国やアラスカ、韓国のヨンドクやソクチョー、沖縄と行く先々でさまざまなことを学んだ。
文:社長 日置
2018/02/24
1987年当時の託児所
社員福利に注力
福岡、札幌への出店では、就職先として学校へのPRを行ったことで、予想以上の新卒男女を採用することができた。
そのころ、東南アジア旅行に参加した。社員には勉強奨励の意味もあり、土産は万年筆にした。まず虫メガネを購入し、ペン先の良し悪しを確認した。
同じ土産でも、できる限り良いものを選びたいという思いからだ。
また、女子社員はハワイ旅行に連れて行った。ワイキキで泳いだり、ヘリコプターに乗ったりもした。ケーキの食べ放題も大好評だった。
京都店にいた35人ほどの三重出身の真面目な若い社員を、住吉店、錦店のころに「清州越し」のように名古屋に来させたこともあった。
その人たちの多くが社内結婚し、子持ちも随分と増えた。
そのため、1981年(昭和56)年、入手した名古屋・栄の寮の一部を改修し「社内託児所」をつくり、接客のベテランであるお母さんたちにも働いてもらうことにした。
多い時には、子供の数は25人を超えていた。施設としては、他に先駆けての取り組みだったので、大いに喜ばれた。
それと、中卒後に製材所で製材や運搬の仕事をした時には、まさに危機一髪の事態にいくつも遭遇した。
製材機のカスガイが外れ、1トンもある材木を、逃げ場のないところで人の上に落してしまった。ところが、運よくその人は身を躱し、事なきを得た。
さらに、暗闇の朝5時前、トラックに木を積んで高速道路を走行中、クラッチの故障により、走行車線内で車が立ち往生してしまった。
ところが運よく、トラックの数百メートル後に、道路監視車が走っていたため、走行車線から外へ引っ張り出してくれた。
こうした奇跡ともいえるような恩恵により、助けられたことは数知れない。
また、名古屋の店のほとんどは、隣の土地を譲ってもらい大きくなった。
81年(昭和56)年、隣を譲ってもらい515平方メートルになった駅前店は、工事中に近隣の人から「ここは商売の難しいところだから、あまりお金を掛けない方がよい」と忠告された。
しかし、4、5年前までは道頓堀の店を抜き、グループの中で一番の売り上げを誇っていた。
文:社長 日置
2018/02/26
海底洞窟を模した「栄中央店」地下
バブル経済の崩壊
1991・92(平成3・4)年ごろにバブル経済の崩壊があった。
値上がってきた土地を90(平成2)年に買い、高騰した工事費を掛け、92年11月に開店した「栄中央店」も、これにより大きな影響を受けた。
ここは、ケヤキ材や赤松の大梁(はり)を使い、1個500万円もする京都の加茂川石をメインの庭石に据えるなど、豪華な店であった。
また、地下の「かにの穴・洞窟座敷」は私の絵心を具現化した繊細さもあり、どこの業者も受けてもらえなかった。
ならばと、私と社員で造り上げた作品でもある。
その店造りを取材した、中京テレビの「スーパーテレビ」でも、「日本一のかに料理店」として全国放送の栄に浴し、一時的にせよ大繁盛していた。
ところが、バブル崩壊後は、各種の接待や接待費の課税もあり、他の高級料理店と同様に、長い冬の時代へと突入していった。
バブル終焉(しゅうえん)後に、金山駅前に売りに出た470平方メートルの好立地を購入し、94(平成6)年には「金山店」を開店させた。7階建ての豪華な店である。
2階から7階までは広くベランダを取り、美しい石とつくばいなどを配した坪庭風に仕上げた。
6階には小川を流し、水車のある田舎を再現した。5階はカラオケルームを11部屋作った。お食事後の利用でも人気を得ている。
小泉内閣が誕生した2002(平成14)年のこと。
私はAビールの重臣で内閣経済戦略会議議長に決まった故H氏とお会いした。
もともと瓶生ビール造りのアドバイザーとして、H氏との親交があったが、その時のアドバイスは日本経済復活の最良のアイディアであった。ところが不幸にもH氏は、脳内出血で倒れられ、ピンチヒッターが立てられることになった。
小泉総理の経済アドバイザーとなったのはT氏である。
彼の主導で、「貸し渋り」や「貸しはがし」が横行。「10年内で今の負債を返済できなければ、企業倒産もやむなし」という極めて厳しい判断によるものだった。
これにより、多くの会社が倒産に追いやられた。
当社も、銀行が送り込んできた行員と支店長が組んだ「事件」が露見したため、丸坊主となって銀行に抗議に乗り込んだこともあった。
文:社長 日置
2018/02/27
郷土英傑行列「家康」役の私(左)と
「北政所(おね)」役の真咲よう子さん
健康は一生の宝
大阪との出店すみ分け外であった東京で、430平方メートルの土地を購入。
S銀行から建物を含む60億の融資の了解を得ていたが、別の銀行から「建物だけでも当行で」と日参されたため、S銀行には土地だけをお願いした。
ところが、運悪く「貸し渋り」が始まり、約束は一方的に不履行となり、土地を売却し大損を出した。
その前の旭川と熊本ではうまくもうかったが、長崎・鹿児島の土地なども売却して損を出し、情愛の残る材木や石材も全て処分した。
そんな身を切り、血を流す努力を続けた結果、どうにか生き残ることができた。
しかし、育った幹部社員の何人かは、これを機に退社してしまった。今思い返しても心痛む大変な時期だった。
その後、200億円以上あった負債を毎年返済し続け、今では8割程度の返済を終えることが出来た。
ここで「名古屋まつり」についても触れたい。
1995(平成7)年までは、秀吉のお供に淀君が出ていた。
秀吉の側室で大阪城を焼き、豊臣の地を断絶させた女性だ。
秀吉の正妻「北政所」は、清洲出身で多くの武将たちを味方に付かせ、これにより、戦のない世が実現したのだ。
私は「この北政所を出さなければ、世界に笑われる」と、訴えた。
異議を唱える人はなく、北政所の出演が決まった。初代演者は、私が推薦した中区正木出身の演歌歌手、真咲よう子さんに決まった。
2年目は女優の中野良子さん。3年目はスケートの伊藤みどりさんの予定だったが、当日雨で残念なことに中止となってしまった。
97(平成9)年には、徳川発祥の地・豊田市十塚町に、家康の功績を称え、本格的城郭風の「豊田城店」を築いた。
4年前に発見された古文書によれば、私の祖先は伊勢・北畠の家臣で侍大将であった。当時、信長の南攻を阻止し、次男・信雄を婿養子として迎えて和解し、伊勢神宮なども守った。
長久手の戦いの後、家康に請われ家臣となった日置大膳の子孫として、実家の敷地内にある屋敷跡の修復も模索中だ。
この連載を終えるにあたり、今後とも不屈の精神で、かには無論のこと油も圧搾油のみを使用するなど正しい商売に徹するとともに、一生の宝である健康で豊かに生きる方法について広く伝えていきたいと考えている。
文:社長 日置
2018/02/28