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中部経済新聞連載 【マイウエイ ㊱】 2018/02/16掲載

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福岡市・天神にあった「福岡店」

絶妙のタイミングで用地取得

福岡への出店
栄店、住吉店、錦店の土地、建物他一切を合わせて5億円程度だったところを、あえて上乗せし、12億5千万円で大阪側から買い取ることにした。
それは私と社員で築き上げた価値であり、惜しいという気持ちは全くなかった。
社員がひたすら努力した結果、名古屋のお客様に喜んでいただき繁盛したのは、松下幸之助翁の「世間は正しい」という言葉にそのまま当てはまるものだと、心からうれしく思った。
工事の遅れていた八事店と駅前店の土地約1000平方メートル、それに栄3丁目にある社員寮を含め少し上乗せすると7億5千万円程度になるため、12億5千万円と合わせて、きりの良い20億円で買い取ることに決まった。
そのような事情とはいえ、20億円は気前の良すぎる金額かもしれないが、大阪側の高く売りたいという魂胆と、名古屋はその土地を生かせる、と踏んだ上での結論だった。
その上、金もうけと親心からなのか、「5億円ほどは最初にもらい、残金は後でよいから利息で稼がせてほしい」との提案があった。
当時、銀行金利は7.5~8%という高利だった。それをさらに上乗せし10%にしてほしいとのことだったが、即座に了承した。そこには私の狙いもあった。
今後予想される人材確保と新地開拓のため、手元にお金が必要であり、具体的には札幌・仙台・福岡などに出店することを考えていたのだ。
利息10%を決断した翌日、私は早くも福岡行きの飛行機に乗っていた。
日本飲食産業協会の友人に会って街の様子を聞き、今後発展しそうな地域のアドバイスも受けた。
「天神の西通りが良いのでは…」、との言葉にすぐに現地に向かい、約640平方メートルの空き地を見つけ、購入を即決した。
名古屋から帰ると先ほどの不動産屋から電話があった。「決めていただいた30分ほど後に、その土地を欲しいと、別の名古屋のかに料理屋さんが来ましたよ」と。
「他にもそんなかに料理屋さんがあるのですか…」とけげんそうに聞かれる一幕もあった。
この土地の取得も、神がかり的な絶妙のタイミングが働いた。そこからも繁盛店になりそうな兆しを強く感じた。

文:社長 日置
2018/02/16

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉟】 2018/02/15掲載

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極寒でのタラバかに漁

シスコ、ロスでの休日

アメリカでの出来事
2回目に訪米したときの思い出も強烈である。
アメリカでは土曜、日曜はしっかり休むのが基本だ。ビジネスで来たからには1日たりとも無駄にはしたくなかったが、漁労会社が休みとあっては致し方ない。
それならば、と気持ちを切り替え、西海岸の観光地の視察と外食事情の探索に出かけることにした。
通訳のデビットは、当時付き合っていた彼女がいたため、土、日だけは休みがほしいとのこと。
2人の時間を邪魔するような野暮はしたくないと、私1人で行動することにした。
向かったのはサンフランシスコとロザンゼルズ。
景色や町並みは電車から眺めるのが適当だろうと考えたが、何時間かかるかわからないからと、デビットから止められた。
何しろ米国は、ジェット機で西から東に移動するのに、優に4時間はかかる広大な大陸なのだ。
1日目はサンフランシスコへ向かいフィッシャーマンズワーフや街見物に費やし、ダンジネスというかにも食べた。
2日目はロサンゼルス。ここでは一大レジャーランドである「ディズニーランド」にも足を伸ばした。
ところがその帰り道に事件は起きた。
たまたま乗ったバスの中で、疲れのためかついうとうとしてしまい、気がついたらなんとバスの終着地だったのである。
「しまった!」と後悔しつつバスを降りた。
車庫の横に出ると、そこはスラム街のような場所で、見ると周囲には10人ほどの屈強な体つきの黒人たちがいた。
獲物にありつけたような目つきで、嫌な笑みを浮かべながら、私を広く取り巻き、じわじわとこちらに歩みを進めてきた。
正直、「まずい…」と思ったその瞬間、なんとどこからともなくタクシーが走り寄ってきたのだ。
この偶然、そしてこの幸運。手を挙げて滑り込むように乗り込んだ瞬間、一気に汗が噴き出し、肩の力が抜けてしまった。
なお、デビットはその20年後に独立し、自身で水産会社を立ち上げ、大きな成功を手にした。
当社の社員として、誠実な日本式の商売のやり方を身につけた結果ではないかとうれしく思っている。

文:社長 日置
2018/02/15

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉞】 2018/02/14掲載

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現地漁労会社の社長と私(左)

海外企業と直接取引

仕入れルート開拓
「味覚の王」と呼称されるタラバかにを芯に巻いた「かに太巻寿司」が良く売れ、平日でも夕方になると、店頭に5~10人ほどのお客さまが並ばれるようになった。
口コミでの評判もあり、評価はうなぎのぼりとなった。 ところが、当時「200海里問題」が国際的に議論されるようになり、かにの入荷が困難をきたすようになってきた。
「国内の資源にだけ頼っていては、この先はない」と、海外からの仕入れの必要性を強く感じた私は、直接アメリカ行きを決意した。
1976(昭和51)年のことだ。
チャレンジ精神は旺盛だが、ろくに英語も話せない私が、現地での通訳を手配しただけで単身初渡米に臨んだ。
今から思えば、大きな冒険であり、ずいぶん無茶をしたと思うが…。
その時の飛行機には、日本人は私以外いなかった。
アンカレッジを経由してのフライトだったが、遠くに連なるマッキンリーとロッキーの山々の美しさは別格だった。
空港に着くと、通訳のデビット・キーンが私を出迎えてくれた。
ドイツ系の好青年で、背は193センチと高い。
40歳とまだ若かった私は、はたから見れば、その身長差もあって親子に見られるのでは、と思った。
現地ではデビットと2人で精力的に動いた。かにの漁労会社に交渉を続けた結果、幸運にも優良な会社とタラバカニの直輸入で契約を結ぶことができた。正直安堵した。
成果を喜びつつ帰国する日になって、デビットが突然こんなことを言い出した。
「ぜひ私を社員にしてほしい。社長はまじめだし、信用できる」と。しかも日本式に土下座までしての懇願だった。
後日、デビットを社員として採用した。デビットは現地の仕入れ要員として、それから長く活躍することになる。
国内の食材店からの取引が普通だった当時、米国の漁労会社と直接取引の路を開いたのは日本の外食産業としては恐らく初めてのケースではなかったろうか。
常に行動主義で体当たりしてきたことが、ここでも実を結んだ。

文:社長 日置
2018/02/14

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉝】 2018/02/13掲載

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往時の「女子大小路店」

独創的で優雅な店舗

競合店の出現
名古屋での新しい会社は、大部分の株を私が持ち、そこに社員株を加える構成で立ち上げることにした。
私の思いをしっかり実現し、社員と喜びを分かち合いたいという強い思いからだ。
そのころ、かにを使った競合店が出てきた。どんどんPRをするので当店と間違って行かれたお客さまから、たびたび苦情が寄せられた。
「このままでは、せっかく築いてきた信用を落としかねない。何か手を打たなければ…」との危機感を持ち始めたところ、名古屋栄・女子大小路の競合店の近くに小さいが最適の出店用地が見つかった。
その土地を下見に行った時のことである。その店の社長とバッタリ出会ったのだ。「ここでやられるのですか…」―。その後の言葉が続かなかった。
かに道楽が出店してくるのかと、急に青ざめていく社長の顔は今でも鮮明に覚えている。
さっそく大阪側に、「その土地を購入し新会社の本店にしたい」と伝えた。
すると、今津芳雄常務からは、「その土地を担保にするだけでは店は建てられない」と一笑に付されてしまった。
「できた店と土地を担保に入れてもらえれば、無担保で2億円を融資してくれる銀行がある」と伝えると「銀行から借りられるのは、せいぜい担保の6~7割。そんなはずはない」と驚いた様子だった。
既に話は付いていたのだが、どうしても信じられない今津常務は、「一度確かめに行く」と、後日わざわざ銀行に同行することになった。
融資担当の役員から、「日置さんは熱心だし、商売もうまい。無担保で貸しますよ。店ができてから担保にもらえればいい。大阪さんの保証も印鑑も必要ありません」という言葉が伝えられた。
今津常務は、けげんそうに首を振りながらも、納得するしかなかった。
そうしてでき上ったのが「かに道楽女子大小路店」(1977年12月開店)だった。
基本設計や店内レイアウトは、すべて私が手掛けた。
今はもう店はないが、「かにの穴」や「洞窟座敷」「店内いけす」など、温めていたアイディアを存分に生かし、独創的で優雅な店舗が実現した。

文:社長 日置
2018/02/13

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉜】 2018/02/12掲載

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日和山海岸をバックに

名古屋の店を買い取る

五分の魂
1974(昭和49)年、山陰・日和山観光の取締役会でのことである。
当時、私のつくった新会社は極めて順調で、年間1.5~2億円ほどの家賃を納めるほどになっていた。
それをいいことに、大阪側はさまざまな無理難題を押し付けてきた。暗黙の了解だけで、文書化していなかったのも原因だったが…。
大阪側より、「不動産は大阪のものだし、株も3分の1は所有しているのだから、名古屋は実質大阪のものだ」と、心ない発言が出た。
それに対して私は、「一寸の虫にも五分の魂がある!」激昂し、机を叩いて退場した。
私を引き止めるための策にあえて乗っただけのことで、株にしても縁を大切にしたい、とあえて持ってもらっただけなのに…。本当に面白くなかった。
「日置さん待ってくれ。考え直して…」と、すぐに他の役員が私のもとへ走り寄ってきた。
ところが、この出来事が思わぬ好転へとつながっていく。キレることがめったにない私の、この時の行動は、大阪側に大きな驚きと刺激を与えたのだろう。
社長の実弟・今津芳雄常務の次女をめとっているため、ほとんどの役員が私と姻戚関係にあたるのと、私が大阪や京都、名古屋で繁盛店を気づいてきたことを知ってくれていることも功を奏した。
親子けんかをさせてはいけない、との思いもあったのだろう、私に対し、土地その他一切を売っても良いと言ってきたのだ。
これに対してまず私は、土地の資産や店舗その他を加え5億円ほどのものを12億5千万円で買い取ることにした。
さらに、大阪側の意向に変化があり、買ったまま手付かずにしていた駅前の土地や、工事中の八事店も合わせて買い取ることにした。
合計すると20億円にもなったが、運よく関西の大手銀行が、私の応援をしてくれていた。その時の担当者とは、今でも親交があり感謝の念に堪えない。
また、大阪や京都、山陰や四国には出店しない事を「紳士協定」とする旨を大阪側に伝えた。
さらに数年間はお礼金を出すという事で話を全てまとめ上げた。
そして、持ってもらっていた株を買い取るために新会社を設立することにした。

文:社長 日置
2018/02/12

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉛】 2018/02/10掲載

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かに道楽京都店と一部大阪店のスタッフ
(1964年元旦)

仕事で鍛えた腕力

力自慢のエピソード
かに道楽栄店の順調な推移に住吉店、錦店も加わり、名古屋での事業は拡大した
それに伴い、私を慕って京都店で働いてくれていた人たちも、必要人数だけを残し、京都から名古屋へと移動してもらった。
名古屋でも調理見習いや若い店員を集めるのが困難な中で、私は全く苦労せずに済んだ。
その社員たちが結婚したり、早朝野球で交流を深めたりと、ますます良好な人間関係が出来上がっていった。
そのころの私は、かに道楽の親会社である「日和山観光」の非常勤取締役を務めていたため、年に1、2回は懐かしい山陰に出向くことがあった。
そんな時には、不振の大阪支店の人心改革やかに料理の創作、道頓堀の土地取得の縁づくり、動くかに看板の考案などの話をしたが、「そんなことも日置くんがやってくれたのか…」と、役員たちに事実を知ってもらえた。
1960(昭和35)年、私が日和山観光に勤めていたころのエピソードを紹介したい。
夜の余暇の時間は、近くの城崎温泉などに出かけ、飲んだり遊んだりするのが普通なのだが、私は違った。
もちろん、宴会などで金波楼が忙しい夜は手伝いに入るが、それ以外の日は、体力作りにと神戸で始めた空手の練習に自転車で通っていた。
ある日それを聞きつけ、空手を習いたいと同行してきたのが、当時の警備部長だった。
彼は水族館長も兼務しており、力自慢で通っていた。
とある場所に65キログラムもあるバーベル型の鉄車輪が転がっていた。これを持ち上げる人がいるとの話を聞き、それならば…と私も挑戦してみた。
最初に10回ほど持ち上げてみたが、腕を痛めると仕事に支障が出るから、と中断した。
いつも力自慢で鼻高々のその館長は、自分もこのくらい軽いものだと高をくくり、ニヤニヤしていた。
ところが、いざやってみると1回目は肩まで、2回目は腰までがやっとで、それ以上は続かなかった。その時の館長の驚嘆ぶりは忘れられない。
私の腕力は仕事で鍛えられたものだ。魚の入荷や力仕事の時には、いつも気軽に加勢していた。
これが評価され、大阪支店への赴任につながったのだと思っている。

文:社長 日置
2018/02/10

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉚】 2018/02/09掲載

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栄店
往時の外観

火災も大事には至らず

栄店のエピソード
店には風情や情緒も必要と考え、奥の正面には京都の銘石である大紅賀茂石を据え、清水が流れる小川には、天竜の赤石や、四国の青石を配し、美しさを演出した。
その小川には沢かにを放し、お子さま連れにも喜ばれる店を造り上げた。
そんな栄店で起こった2つの出来事を紹介したい。
2008(平成20)年のことである。
外国に出向くため空港で待機していた時のこと、携帯に突然店舗のボヤの知らせが入った。
あと10分程で飛行機に乗るところを急きょキャンセルし、急いで戻ると、火は既に鎮火していた。
漏電により寿司場は丸焼けの状態。消防も出動して大騒ぎとなったが、消火活動もそれほどせず、結果として大火災にはならなかった。
店の4階には私や家族の思い出の品々があったが無事に残った。また、隣のビルや家や裏の松坂屋さんにも、一切のご迷惑をおかけしなかった。一体何が起きたのか…。
店舗1階の天井には、私が集めた「すす竹」など、たくさんの竹材が使ってあったため一気に燃え上がり、内部が酸欠状態になり鎮火し、それ以上燃え拡がらなかったのだ。
また、店の外装として梁型の飾りが56個ほど付いていた。
ケヤキ材の株や節木で作ったもので、1つの重量は10~15キログラムの重さだ。店頭に出っ張った飾りは安全対策の養生はしていたものの、自重と37年の風雨の影響でいつ落ちるかわからない状態になりつつあった。
ボヤを通して、神仏が私に警告を与えてくれたのかもしれない…と、感謝の念を強くした。
逆にこんなこともあった。
松坂屋北館の工事が進められていたのだが、工事中に土砂がたくさん流れ出て、かに道楽栄店の屋上のクーリングタワーに入ってしまった。
賠償を求めず、掃除だけをしてもらい、「今後、接待などで店を使ってもらえるならば」と許したのだが…。
通常なら15年~20年は持つはずの大型空調機が、わずか1年ほどで2機とも使用不能という有様だった。
あほうと思えるほど気の良い私の失敗談だが、その分たくさんの恵みを受けたと思っている。

文:社長 日置
2018/02/09

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉙】 2018/02/08掲載

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後の「栄店」となるパチンコ屋
(中央)

運試しで「買い」を決意

「大阪」からの独立
今津芳雄常務側からの結婚話も含めた再入社要請の際には、5~7年後には独立の考えがある事を伝え、了解をもらった上でのことだったので、強い意向での交渉だった。
独立に対して頑として引かない私の態度に大阪側もついに折れ、先方から交換条件が提示された。
「こちらで不動産を購入し工事費用も出すから、日置は自分で会社を作り好きなようにやればいい。ただし、もうかれば経常利益の半分を家賃として支払うというのはどうか…」
この提案に、まず子どものころの「年貢納め」の空しさを思い出した。また当時、堅調な業績を評価して無担保融資を申し出てくれる銀行が2行もあったため、正直迷いもした。
だが、ここは、かに・人の縁・社員のことも考え、大阪側の条件をのむことにした(このやり方は「利益折半」という昔からよく用いられた方式だ)。
1971(昭和46)年、ついに名古屋・栄で独立を果たし「名古屋かに道楽」を創業、第1号店の「栄店」を開店した。
元々はパチンコとマージャン店のビルだった。当時の久屋通りはまだ人もまばらで、今の松坂屋北館あたりは農協の朽ちた古倉庫と草むらが広がっていた。
その北隣に当たるのがこの3階立てのビルで、面白い店舗が造れそうな格好の物件に思え、心が動かされた。
購入するか流すかは、運試しの結果とした。
「日頃は縁のないパチンコで、運よく玉が出れば買い取ることにしよう」
そこで100円を元手にやってみたところ不思議と玉がどんどん出て来る。幸運の女神が微笑んだのか、交換したら景品は500円になった。
「これはツイている。買えということだ!」パチンコの結果にも後押しされた形となった。
この決心はずばり当たり、「栄店」は開店当初から好調な滑り出しを見せた。またこの土地のことを調べてみると、意外なことがわかった。30年ほど前に首相になられた海部俊樹さんの誕生地らしいとのことだった。
南隣の農協の地には、松坂屋北館が完成し、人通りが増え、バブルが崩壊する1991(平成3)年までの10年程は、年商10億円を超える大繁盛店となった。

文:社長 日置
2018/02/08

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉘】 2018/02/07掲載

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名古屋第1号店の「住吉店」
(開店当時)

ついに独立へ

名古屋進出
京都店店長を兼務しつつ名古屋へ進出したのは1967(昭和42)年のこと。
当初、名古屋では大阪風の薄味は受け入れられないだろうと言われた。
また「和風の着物を着ての接客は風俗営業ではないか…」と警察からあらぬ指摘を受けたこともあり、この時はさすがに「日本人が着物を着て接客することのどこが悪いのか!」「名古屋の人は日本を忘れたのか?」と警察に問い詰めたこともあった。
パートタイム雇用の高まりも手伝って、小さな新聞募集広告で170人もの応募者があり、選りすぐりの人たちを採用することができた。
寿司と天ぷらの店を買い取って一部改造し、6月に中区住吉町に「かに道楽名古屋店」(後の「住吉店」)を開店した。
8月には真夏にもかかわらず、連夜満席となる盛況振りとなった。
名古屋で商売を成功させれば、どこに行っても通用する―。
それほど厳しい土地柄とも言われており、一時の結果におごることなく、今まで以上の覚悟と努力で一層商売に励んでいった。
さらに1969(昭和44)年には中区・錦に、土地付きの中華料理店を買収し、第2号店として「錦店」を開店した。
この店も専門の設計士に図面を任せていたが、自分が思い描いた店舗にはなっていなかった。それならば、と自分のイメージどおりの店舗作りを目指して、それ以降の設計図は自分で画くようになった。
かつて夜間高校で学んだ機械設計の基礎力を、独学によってさらに深め、店舗設計に生かしていくことになった。
両店舗とも順調に売り上げを伸ばしていった。
誠心誠意尽くす姿勢を、お客様が評価してくださったのだという大きな自信となった。
いよいよ独立して自分で商いをしたい、と強く思うようになった。
1969(昭和44)年に独立を申し入れたが断られ、改めて2年後に「ここは引けぬ」と覚悟を決め交渉に臨んだ。
大阪からの独立交渉は困難を極めた。独立すれば自分たちにとって大きな脅威になる、との危惧があったのだろう。
1964(昭和39)年、当時大阪の責任者だった今津芳雄常務のすすめによる次女・梅子との婚姻も、私の動きを見越したけん制の意味もあったのでは、と疑ってもみた。

文:社長 日置
2018/02/07

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉗】 2018/02/06掲載

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奇跡に護られた瞬間
(イラスト・筆者)

神仏のご加護

数々の奇跡 京都店は、真面目でよく働く伊勢の若い人たちの尽力で大繁盛店になった。私もそれに甘えることなく、お盆前や年末には、引き続き社員として働いてもらうことと、次の人をお願いするため、ふるさとの社員の家を回った。
手土産とパンフレットを携えて、まさに「野越え、山越え」の訪問だった。
なかには、行って戻るのに1時間近くかかる山奥の社員宅もあった。
肩に10キロほどのみかん箱を担ぎ、山路を往復30分、お礼と様子を伝えるのに10分という具合で、すべてを回り終えるのが夜になることもしばしばだった。
自分の仕事は徹夜してでも片付け、不眠不休で頑張っていたお陰か、ある時「神仏のご加護」としか思えない出来事に遭遇した。
店の3階で食事をされていたお客さまのことである。3歳くらいのお子さんを高さ1メートルほどの窓に乗せて遊ばせていたところ、そのお子さんが窓から下に落ちてしまったのだ。
高さは10メートルもある。下に落ちれば大惨事は免れない。ところが、何と3階と2階の間に、壁から釘が2本頭を出していて、そこにお子さんの衣服が引っかかり逆さ吊りの状態になっていた。
釘などなかったはずなのに…。
しかも運よく私が2階の窓際にいたため、すばやくお子さんを抱き上げることができた。
泣きじゃくってはいたものの全くの無傷だったことに、全員がほっと胸をなでおろした。奇跡に護られたと、実感した。
1964(昭和39)年11月には、日和山観光(かに道楽)の今津芳雄常務(元営業部長)の次女をめとり、店の一部を借りて住むようになった。
その後、大阪での店長会に参加した時のこと。いつもより早く終わったため京都に直接戻ったところ、あろうことか店の裏隣が出火していたのだ。
店員はパニックとなり右往左往していたが、私はこんなこともあろうかと事前に用意していた簡易式の消火設備を使って放水し、類焼を防いだ。
当時はまだ、消火設備の法的設置義務などなかった時代である。水道圧でも遠くまで水が飛ぶように中古のノズルやホースを準備していたのは、先見の明であった。
隣は丸焼けだったが、ここでも奇跡が起こった。

文:社長 日置
2018/02/06

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